関八州が徳川家康の領地になったのは天正18年(1590)である。江戸では、先ず太田道灌がつくった城(1457)に入ったわけだが、『岩淵夜話』によれば

 

『…御旗本ノ諸人ノ積十人ニ七八人ハ相州小田原ト推量仕ル、其内二三人も鎌倉ニテ可有御座カ、ナドト申衆モアリ、然ル処ニ秀吉公ト御相談ノ上ニテ、武州江戸ヲ御居城ト被仰出付、諸人手ヲ打テ是ハイカニト…』

つまり

居城をどこにするか?旗本十人に八人は小田原、二人は鎌倉と思っていたのに、家康がいきなり江戸と言い出したのでその意外さに驚いたという。

 

地図を見れば、武蔵野台地の東端で東は低地、南側の裾は江戸湾であることが一目瞭然です。

西北側は台地(山)なので軍事防御の点で適し、南東•麓には入江や海あって、将来の海上物流を見据えたとき絶好のポジションだった。家康は眼力があったのである。

「地形を感じる地図アプリ(スーパー地形)」高低差が強調されて見えます。

 

所謂、天下普請が始まったのが慶長8年(1603)、家康62歳でした。新築なった江戸城本丸に、将軍秀忠が移り住んだのが慶長11年(1606)9月。

 

江戸城の拡張工事はこののちも続けられ、寛永13年(1636)、三代将軍家光の時代に、外郭と内廓からなる江戸城のほぼ全容が完成した。

ちなみに家康は元和2年(1616)に75歳で亡くなっている。

 

江戸城本丸、二の丸、三の丸がすっぽり入るのが、現在の東御苑で月•金以外は自由に入園できます。

で、東御苑へは三度目かな?入ってみた。

 

今回は平川門から入場

平川門に入る前、橋の擬宝珠に触れる✋。寛永元年の銘が見えます。

 

天神堀を左にみて梅林坂下から南へ120m進むと塩見坂下(白鳥濠畔)に出ます。…標高約9m。👇

 

👇白鳥濠の水面を映す南北約120mの石垣

…「同感時代の「前(プレ)江戸の崖っぷち」をしのぶことができる場所といえば、白鳥濠に屹立し、かって東方に海を見下ろした関東ローム層の崖を被覆してほぼ南北に連なるこの石垣を第一に挙げなけれならないでしょう」芳賀ひらく「江戸の崖 東京の崖」

 

塩見坂を上りきると、左右(南北)に拡がった広場(200m×600m)に出ます。ここがかっての本丸でした。👇…標高約20m (つまり塩見坂下が二の丸の標高になります)

 

👇天守台

天守の高さは約58m、明暦の大火(1657)により焼失。江戸時代を通して天守があった50年間の後、天守がない状態が210年続いた。

 

👇天守台から南を見て…

 

天守台から南に約400m歩くと右手に👇

 

👇本丸南端に富士見櫓

富士見櫓は、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。天守焼失後の「代用天守」の櫓ともいわれています。

 

大手門を出て時計反対廻りで竹橋の先まで歩く🚶‍♀️

👇北桔橋門より東京国立近代美術館を見て…ここは標高約22mです。

 

wikipanionによれば、「日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐し、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される」という。

 

東京のど真ん中にいまはただ広いだけの公園でした。

 

以上