昔: 熊野十二社

     絵はwikipanionより保存したものに改印年月を追記して転載

この社は、応永年間(1394ー1428)紀伊半島熊野にある十二の神社を勧請し祀ったことから十二社(じゅうにそう)と称した。江戸時代に池や滝などを造作して景観を整え、「池」と「滝」は、この場所を名所たらしめた。

 

嘉永4年(1851)に高さ2メートルほどの「十弐社碑」が建てられた。絵の右手の松の木 の下の石碑がそれであろう。

 

明治以降は花柳界としても知られた場所で最盛期には茶屋や料亭が百軒ほどもあったらしい。広大な敷地であったが、淀橋浄水場の建設とともに池も滝もなくなった(昭和43年)。しかし、その跡地である新宿中央公園には、浄水場の遺構を利用してが造られている。

 

今: 石碑の漢文について考えた⁉️

坂を上がった…ほぼ中央に絵と同じ石碑が映っています

 

 

 

考えた⁉️といって、漢文の解釈をしてみようとしたわけではない。

有名な十二社の石碑にはどんな内容が書かれているか? 今は便利な世の中で、「十二社 石碑 読む」で検索すれば『漢文石碑を読み歩く 十二社碑』が出てくる。”読み下し文”も”現代語訳”も載せてあるから、容易に本文の意味を知ることができる。

しかし、この日本で江戸時代で「なぜ漢文で記されているのか?」。漢字は千数百年前から日本に入ってきて、現代人は(漢文はともかく)漢字に慣れきっている。

だから石碑を見ても普通に「漢字がいっぱい書いてあるなぁ〜、全部読めるかなぁ?」くらいでおわっているとおもう。この碑についても当時一流の人の詩(漢詩)が一流の書家に依って書かれたものだから、私なんかも「すげぇなぁ〜」位の風格は感じる。

でも、なぜ漢文なのか?である。このあたり、漢字について”目からウロコ”状態にしてくれたのが中国文学者の高島俊男(1937〜2021)だった。私はこのような真の学識者(私の思いこみ?)にはつい感化されてしまう。

彼の説を『漢字と日本人』より少しだけ抜粋します。

◎そもそも無教育の人たちは、漢字が外国の文字であることもしらなかったし、だからはじめから日本語を書きあらわすようにはできていないのだということもしらなかった。

 

 

 

◎江戸時代以前、実際に学問をやる人にとって学問とは、やはり字をおぼえることであり、字をおぼえて漢籍(むかしの中国人が書いた書物)をよむことであったが、究極の目的は「聖人の道を知る」ことである、ということになっていた(単に「聖人」といえば通常は孔子のこと)。

人間、政治、世界についてのいっさいの真理はすでに聖人によってくまなくあきらかにされており、のちの人がさらにつけくわえるべきことは何もない」

 

…だから学門の究極の目標はその聖人の道をしることである。ではその聖人の道はどこにあるかといえば六経にかいてある。だから聖人の道を知るためには六経をよまねばならぬ。その六経は無論全部漢字である。だから学問をやるには漢字を知らねばならぬ。

というわけで

学問とは漢字をおぼえることである、ということになっちゃったわけだ。

◎日本人が.漢字、漢文、漢籍を無上にありがたがるのを、最も強く批判したのは本居宣長である。この人はしばしば、ほとんどかなばかりの文章を書いている。

宣長ももちろん、…高度の内容のことをのべようとする際には、漢字、漢語ぬきでは、どんなにしても文章は書けぬのである…このことを承認している。

高島俊男先生のほぼ結論

◎漢語漢字がはいってきて和語は成長がとまってしまったから、ある程度以上のことは漢語で言うよりほかないのである。

 

ということで、今回は私が考えたというより、全編高島俊男の説の受け売りとなってしまいました。

以上