昔: 紀の国坂より赤坂を遠望
絵はwikipanionより保存したものに改印年月を追記して転載
🖼大名行列の進む(下がっているのではなく上っている)左側に紀州徳川候の中屋敷があり、坂の名は紀の国坂と呼ばれた。右の火の見櫓は火消役•米津小太夫屋敷内のもの。中央の家並みは元赤坂、裏伝馬町、赤坂表伝馬町など。
左のこんもりした緑は山王の丘である。行列は一列しか描かれていないが二列の筈であり、四本の槍を持つことを許された のは徳川御三家のみであったとされている。
赤坂には、紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家(いずれも重臣大名の屋敷)があった。これが、今の紀尾井町という名前の由来であるが、既に、古地図(江戸時代末期)にも紀尾井坂という文字が記されている。
今、迎賓館、上智大学、ホテルニューオータニに変わった。古地図では、絵の堀は御堀と記されていて、今の弁慶堀とはなっていない。画題に溜池とあるのは御堀の一部分としての溜池がこの辺りから東へ広がっていたからであろう。
絵の中央に小さく描かれている火の見櫓は、火消役・小出伊織のもので、今のほぼホテルオークラに当たる。
今: 紀の国坂を歩く‼️
📷“今昔比較”と銘打っている以上、今の写真目線は徹底的に広重と同じ写生位置にこだわっている。
が、
高速道路が画面半分を占め、それと道路向こうの中小のビルによって全く見通しのきかない写真にならざるを得ない。御堀は今、弁慶堀とよばれている。
坂を上がった辺りにある喰違見附跡を目指すことにした
坂を上がり進んだテッペンに土塁(明らかに人工のものと判る)があった
▼喰違木戸跡説明板
喰違木戸跡→要約
…通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形ですが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口構造となり、門ではなく木戸が設けてられていました。この地は二つの谷に挟まれた高台で、江戸城西側の防御の要として構築されたと考えられています。…
確かに見通しが悪い。これが喰違いということなのか?
土塁の北側は上智大グランド
左側の緑の所: 地下鉄・丸の内線が地上に出たり入ったりしている
土塁の南側には堀が残っている
土塁の下を南から来た高速4号線が地下へ潜る
自然と人間のせめぎ合いが面白い‼️(それほどでもない…ですか?)
▼紀伊和歌山藩徳川家屋敷門…門の向こうは迎賓館
▼尾張名古屋藩屋敷跡…(情痴いや上智大学紀尾井ホール脇にて)
▼弁慶堀の釣り人
▼紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡…(弁慶橋脇にて)
以上
見ていただきありがとうございました












