長い間、『江戸歌舞伎発祥之地』碑が、ここ京橋の交番の裏にあることに違和感を持っていた。

違和感とは、碑の説明にもある猿若勘三郎が江戸で最初に櫓を上げた小屋•中橋南地が本当にこの辺りにあったのか?というモヤモヤ感です。

 

この碑の上は高速が走っている、丁度その下をむかし京橋川が流れていてそこに架かっているから京橋と名が付いているのだが、この辺りに中橋という橋があったとも他に(中橋が架かる)川があるとも思えなかった。歌舞伎ファンとしてはこのモヤモヤを払拭しなければならない。

 

話がちょっとそれますが、中橋(なかばし)という地名…落語の金明竹に出てきますね。

 

与太郎が店番をしていると、中橋の加賀屋から使いが来た。「ごめんやす。旦那はんお留守ですか。わてな、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。せんど、仲買の弥市が取り次ぎました道具七品の内、祐乗、光乗、宗乗、三作の三所物…」

 

上方弁でまくしたてるし、ナカバシと濁って発音するから関西の話か?と思って聞いているうちに面白い話が終わってしまう。出本はともかく江戸の噺なのです。東京近郊の人が、今、中橋という響きを耳にすることは無くなってしまっている…と思っています。

 

▼「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9年•1632)…国会図書館デジタルコレクションより

江戸中心部をあらわした有名な図です。これを見ると江戸初期に十本ほど開削した堀の真ん中辺りにひときわ大きい堀(赤丸)が江戸城に向かって伸びていることが分かります。縦の川が紅葉川で真ん中に架かっていたのが中橋だったのです。京橋と日本橋の中間で中橋というネーミングにも頷けます。

 

▼「寛永江戸全図」…文京区立図書館より拝借したものを写真加工

この図では、堀(川)の半分が既に埋め立てられています。

 

▼「江戸名所図会」中橋…国会図書館デジタルコレクションより

江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎(1597?-1658)が江戸で初めて芝居小屋を掛けた場所です。安永3年(1774)にはすでに埋め立てられ、中橋広小路という町になりました。盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集まりました。現在の八重洲通りと中央通りが交差するあたりです。(中央区HPより転載)

絵の賑わいからして今の銀座四丁目といったところだったのでしょう。

 

いろいろネット遊びをしているなか、私の違和感•もやもやを見事に解消してくれたページに出くわした。それは、中央区京橋図書館の〈郷土室だより〉でした。

https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/images/upload/kyodo_072.pdf

 

▼〈郷土室だより〉によれば下の図は(現図は『沿革図書』中の『鍛冶橋御門外 延宝(1673〜81)年中之形』で)それに書き加えたものとの説明です。

 

昔:『鍛冶橋御門外 延宝(1673〜81)年中之形』…〈郷土室だより〉より拝借をしたものを写真加工

〈郷土室だより〉では、上の図の※印辺りを、初代勘三郎が櫓を上げた場所であろう…としています。発祥の地碑は、もともと京橋1丁目交差点にあった(❓)ものを諸事情により約5百メートル西の現在地に移動したようです。

 

今: 上の図と同じ範囲の現在の地図

 

A  昔は中橋広小路でした…今、ヤン•ヨーステンの碑があります

 

B 京橋方向

 

C 日本橋方向

 

D 奥に東京駅八重洲口のルーフが見えます

 

E

八重洲地下街からここ久安橋(昔は越中橋)まで、江戸初期•紅葉川が流れていた

 

F 久安橋上から西方向…昔の楓川が今、高速都心環状線

 

コロナが収まって、来年はいい年になりますよう‼️