昔: 目黒千代が池

🖼南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられ、千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来とされています。池を含む千代ヶ崎台地は、南の方が開け、眼下に目黒川、続いて田園、さらに遠方には秩父の山々が連なり、その上に富士が聳える非常に眺望の良い所であった。

 

▼目黒川を挟んで南が目黒台、北が淀橋台       (高低差アプリ地図)

 

 

今: 目黒区三田の坂を歩く‼️(前編)

▼写真B(地図Aの四角部分を拡大したもの)

 

 

9月8日、少し涼しくなったので、上の数字順に歩いてみた🚶‍♂️

①目黒駅前より権之助坂を見て     (標高29.8m)

 

②権之助坂途中で振り返って     (標高13.2m)

 

③目黒新橋より上流方向       (標高8.8m)

 

④田道広場公園            (標高6.3m)

 

⑤坂: (電柱に目黒1-1の表示)      (標高9.9m)…坂のてっぺん(標高29.5m)

 

⑥坂: (右の塀に目黒1-2の表示)        (標高9.9m)…坂のてっぺん(標高29.5m)

写真⑤の右の塀の辺りから写真⑥の右側にかけて松平屋敷が広がっていた。古地図と見比べてみて写真⑦(撮り忘れ)が中央辺り。松平主殿頭の抱え地(地図B参照)は、その名も「絶景観」と呼ばれた。

領地内にあった〈千代が池〉は長さ1丁余(約110m)、巾20数間(約45m)の大きさがあったいう。その池も大正時代まではあったらしいが、跡形もなく埋め立てられてしまった。写真中央の白い車の左側に〈警視庁目黒合同庁舎〉があり、この辺りに池があったと思われます。従って、写真⑥(黒矢印)が絵と同じ視線と思っています。

 

絵の描かれた頃からたった170年、滝も池もなく風情は全く変わってしまいましたが、地形•地表以下にはまだ“自然の証拠”が留められています。でもこの傾斜も人の手よって少しずつ…少しずつ緩くなっていくのでしょう‼️

 

▼⑤と⑥の間のコンクリート塀

 

 

⑧〈三田公園〉入り口の「千代ヶ崎」の説明板  (標高30.4m)

 

⑨⑧から50m南へ進んで…その先が、いきなり崖になっていて驚き😲

公園鉄柵の10m先: 見えるのは左側の石積みと住居の屋根‼️

 

千代が池について

『東京人』(2019年19月号)のなかで、東京スリバチ学会会長の皆川展久氏は「…こちらは、正真正銘の人工の滝です。目黒千代が池は、三田用水の水を引き込んで落としていた記録が残されています。三田用水とは、玉川上水から分水された用水路のことで、下北沢から代田、上目黒、白金を経て芝へ給水してました。水量は非常に豊富で、恵比寿ビール工場ができたのも三田用水があったことが理由のひとつです。…」と語っています。

 

尚、「抱え地」とは、幕府の補助に頼らず自前で土地を購入したり、借用したところだそうです。

本日は、前編として写真①〜⑨まで。

 

見ていただきありがとうございました😊