地上天国(ミロクの世)の住民への道も一歩から
2030年まであと8年
日月神示
信仰は出来るだけ疑え
~信仰の的は最高級の神仏の型~
「信仰は出来るだけ疑え」
あんた、
そこに幸福実現はあるんか?
世界救世教
◆新宗教とは何か
~省略~
としたら現代人を心の底から信じさせるには、
どうしても理論的には筋が通っており、
疑い得ない現当利益が伴わない限り
まず駄目といってよかろう。
従って単なる流行を追うような宗教信者では、
一時的で長続きしないのはもちろんである。
次に言いたいのは
現代人とても決して
信仰心のない訳ではない。
ただ現代的感覚からみて、
信じ得る宗教が余りないからで、
ありさえすれば必ず信ずるのは、
私の経験によっても確かである。
むしろそういう宗教を
求めている人が大多数といっていい。
ところがそういう宗教が見当らないため、
止むなく無信仰者となっており、
それに対し何といっても
科学の方は手っ取り早く眼に見えて、
人間の要求を満してくれる以上、
自然依存する事になるのは致し方あるまい。
という訳で
無信仰者を非難する事は出来ないと思う。
ところがここに問題がある。
というのは
それ程信頼する科学でも解決出来ず、
そうかといって
宗教でも解決出来ない事もよくあるので、
ジレンマに陥ってしまい、
その上先の見通しもつかないので、
智識人中のある者は懐疑に陥り、
ある者は希望を失い、
その日暮しになったり
自暴自棄的となって、
懐(ふところ)都合のいい者は
享楽を求める
という結果になるので、
これが現在の世相であろう。
今一つ言いたい事がある。
それは今まで現われたところの
歴史的宗教偉人より以上のものは
最早絶対出ないと決めている事で、
この考え方も
絶望に拍車をかけているのである。
(「九分九厘と一厘の悪とは現代医学」
というお言葉について)
「九分九厘の悪」とは、
絶対力に一厘足りないだけの
強い力を持つ悪魔で、
絶対善の神(国常立尊)と対峙する。
◆神仏はあるか
(抜粋)
私は若い頃から
極端な唯物主義者であった。
その事について二、三の例を挙げてみるが、
私が如何に
唯物主義者であったかという事は、
四十歳ぐらいまで
神仏に決して手を合わせた事がない。
何となれば
神社の本体などというものは、
大工や指物師がお宮と称する桧で
箱様のものを作り、
その中へ鏡か石塊あるいは
紙へ文字を書いたもの等を入れる。
それを人間が恭しく拝むという事は
およそ意味がない、
馬鹿々々しいにもほどがある
という考え方であったからである。
また仏にしても
技術家が紙へ描いたり
木や石や金属等で観音とか
阿弥陀、釈迦等の姿を刻んだものを拝む。
然も観音や阿弥陀等は実在 しない、
いわば人間の空想で作り上げたものに
違いないからなおさら意味がない、
何れも偶像崇拝以外の何ものでもない、
というのが持論であった。
◆自由なる信仰
(抜粋)
昔からあることだが、
その宗教が盛んになると
よく偽物が出たがる。
本教なども今までに
そういうことが時々あるので、
その都度私は言うのである。
宗教も化粧品と同様、
売れると偽物が出るもので、
偽物が出る位なら
世の中から認められた証拠だから、
寧ろ結構ではないかと笑うのである。
このことは
形は違うがキリスト教にもあるようだ。
それは偽キリスト、偽救世主が
今に出るから注意せよ
と戒めているが、
本物をものまねる反キリスト|
あっさり黙示録#24
ごうちゃんねる
これは善いこともあれば悪いこともある。
何故ならば、
もし本物の救世主が出ても、
偽者と思い誤まり、
救われない人が出来るからである。
◆正しき信仰
支那の碩学朱子の言に
「疑いは信の初めなり」
という事があるが、
これは全く至言である。
私は「信仰は出来るだけ疑え」と
常に言うのである。
世間種々の信仰があるが、
大抵はインチキ性の多分にあるものか、
そうでないまでも
下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を
的としたものが多く、
正しい神を的とする信仰は
まことに少ないのである。
従って、
厳密に検討を加えるとき、
大抵の宗教は何等かの欠点を
包含しているものであるから、
入信の場合何よりも
まず大いに疑ってみる事である。
決して先入観念に捉われてはならない。
何程疑って疑り抜いても
欠点を見い出だせない信仰であれば、
それこそ信ずるほかはないであろう。
しかるに、世の中には最初から
「信ずれば御利益がある」
という宗教があるが、
これは大いに誤っている。
何となれば、
いささかの御利益も
認めないうちから
信ずるという事は、
己を偽らなければならない。
故に、最初はただ触れてみる、
研究してみるという程度で
注意深く観察し、
できるだけ疑うのである。
そうして、
教義も信仰理論も合理的で
非の打ちどころがないばかりか、
神仏の御加護は歴然として
日々奇跡がある程のものであれば、
まず立派な宗教として
入信すべき価値がある。
またこういう宗教もある。
それは信者が他の宗教に触れる事を
極端に嫌うのであるが、
これらも誤っている。
何となれば
それはその宗教に欠点があるか、
または力が薄弱である事を物語っている。
最高の宗教であれば、
それ以上のものは他にない
筈であるから、
他の宗教に触れる事を恐れるどころか
かえって喜ぶべきで、
その結果
自己の信ずる宗教の
優越牲を認識し、
かえって信仰は強まる
事になるからである。
しかし、
こういう事も注意しなくてはならない。
それは相当の御利益や奇跡の顕れる場合である。
正しい神仏でも
人間と同様上中下あり、
力の差別がある。
二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うから、
御利益や奇跡もある程度顕れるので、
大抵の人は有難い神仏と思い込んでしまう。
ところが長い間には、
二流以下の神仏では
往々邪神に負ける事があるから、
種々の禍いとなって表れ、
苦境に陥る場合があるが、
一度信じた以上何等かの理屈をつけ、
神仏の力の不足など発見できないばかりか、
かえって神仏のお試しまたは罪穢の払拭と
解するのである。
信仰者にして病気災難等の禍いがあり
一時は苦しむが、それが済んだ後は、
その禍い以前よりも良い状態になるのが
上位の神仏の証拠である。
すなわち、病気災難が済んだ後は、
罪穢がそれだけ軽減する結果
霊的に向上したからである。
それに引き換え、
禍いが非常に深刻であったり、
長期間であったり、
絶望状態に陥ったりするのは、
その神仏の力が不足のため
邪神に敗北したからである。
世間よくあらゆる犠牲を払い、
熱烈なる信仰を捧げて祈願するに関わらず、
思うような御利益のないのは、
その人の願い事が神仏の力に余るからで、
神仏の方で御利益を
与えたくも与えられ得ない
という訳である。
このような場合、
これ程一生懸命にお願いしても
お聞き届けがないのは、
自分はもはや
神仏に見放されたのではないかと悲観し、
この世に神も仏もあるものかと思い
信仰を捨てたり、
自暴自棄に陥ったりして、
ますます悲運に陥るという例は
よくみるところである。
こういう信仰に限って、
断食をしたり、
お百度詣りをしたり、
茶断ち塩断ち等をするが、
これらは甚だ間違っている。
個人的にどんな難行苦行を
行なったとしても、
それが社会人類にいささかの
稗益するところがなければ、
徒労に過ぎないわけで、
こういう方法を喜ぶ神仏があるとすれば、
もちろん二流以下の神仏か
または狐狸天狗のたぐいである。
故に正しい神仏であれば、
人間が社会人類の福祉を
増進すべき事に努力し、
その効果をあげ得た場合、
その功績に対する褒賞として
御利益を下し給うのである。
ついでに注意するが、
昔からよく
「鰯(いわし)の頭も信心から」
という事があるが、
これは大変な間違いであって、
すべて信仰の的は
最高級の神仏でなければならない。
何となれば、
高級の神仏ほど
正しき目的の祈願でなくては
御利益を与えてくださらないと共に、
人間が仰ぎ拝む事によって
清浄なる霊光を受けるから、
漸次罪穢は払拭されるのである。
鰯の頭や低級なる的にむかって
いかに仰ぎ拝むとも、
低級霊から受けるものは
邪気に過ぎないから、
心はけがれ、
自然不善を行なう人間になりやすい
のである。
それらを知らない世間一般の人は、
神仏でさえあれば、
皆一様に有難いもの、
願い事は叶えてくださるものと思うが、
それも無理はない。
もっとも昔から
神仏の高下正邪等
見分け得るような教育は
何人も受けていないからである。
そうして、
狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、
力の強弱もあり、正邪もあるが、
頭目になると驚くべき力を発揮し、
大きな御利益をくれる事もあるから、
信者も熱心な信仰を続けるが、
多くは一時的御利益で、
ついには御利益と禍いとが
交互にくるというような事になり、
永遠の栄は得られないのである。
以上説くところによって、
信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、
その識別に誤りなきよう
苦言を呈するのである。
日月神示
今までのような宗教や教えの集団つどいは
潰れてしまうぞ、
神が潰すのではないぞ、
自分で潰れるのだぞ、
早うこの神示、
魂にしてマコトの道に生きてくれよ
従ってまず
真理を普(あまね)く
全人類に知らせる事こそ
根本である。
世界救世教
◆御 詠
二千年余年かかりし
釈迦やキリストの業にも
勝らん吾の十年
プレミアムな
唯心教育を
もっとみんなのものに
このメッセージがわかる人、
7人に伝わればと
早う誠の臣民ばかりで固めてくれよ。
神世の型出してくれよ。
時、取り違えぬように、
時、来たぞーー!!
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天国の福音と真理は
普く宣べ伝えるべし
しかる後
世の終りも来る
と共に
天国も出現する





































