【空海の言葉】実践して初めて悟る | 新MUのブログ

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2014年11月末をもって閉鎖した【MU(ムー)のブログ】の管理人です。
その節はお世話になりました。以前は時事問題を主に取り上げ
ましたが、各種事情により少しセーブします~♪

 

智鏡(ちきょう)心に処すれども、

 

縁なくばすなわち利物の力を欠く。

 

ゆえによく石を長時にうすくみがいて、

 

六度の行を積み、

 

芥(けい)を永蔵に耗(ついや)して、

 

万行の因を蘊(つ)む。

 

【現代語訳】

智慧の鏡は心にあっても、修行の縁がなければ、衆生に利益を与える力は出ません。それゆえに、無限の長い時間をかけて心の鏡(石)を磨き、六波羅蜜の菩薩の行を積み、永遠の時間を費やして、あらゆる利他行の因となるものを蓄積するのです。

 

 

悟りの智慧を映す鏡が心にあっても、それだけでは悟りの智慧を知ることはできません。その智慧は、修行という縁を通して得ることができるのです。

 

それゆえに、長い時間をかけて心の鏡を磨き、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの優れた智慧(六波羅蜜)を実践し、菩薩の行を積み、利他の行為のできるもと(菩提心)を自らの心に蓄積するのです。

 

【空海の言葉】悟りは功徳の報酬である(2019/7/18)より

 

この願文の言葉はそのような【悟り】について述べています。

 

故人の法会で読まれる願文の性格上、その内容は一般の人々が仏の道を歩むことを想定しています。

 

そのために、そのような人たちが他の人々を幸せにする利他の力を身につけるには、まず菩薩、つまり「悟りを求める衆生」となるべきことを教えています。

 

理由は、悟りの智慧を得ようとする人々(衆生)はそもそも菩薩である、と規定する大乗仏教の思想を前提にしているからです

 

 

空海はここで、利他の智慧を知ることができる能力を心に持っていても、実際にその智慧を実行することができなければ、利他の力があるとはいえない、と考えています。

 

智慧を映す鏡を生まれながらに持っていても、何の意味もありません。その智慧の習得を菩薩行という修行の縁に求めているのです。

 

ですから、この言葉の核心は、「縁なくばすなわち利物の力を欠く」という一節にあることがわかります。

 

いくら悟りを得る才能があっても、その才能を表現し実践する「縁」がなければ、しょせん宝の持ち腐れにすぎません。

 

利他の智慧とは、何をなすべきかを知っていることではなく、その智慧を身につけて実際につかえる能力のことであり、それは実践行を縁としてはじめて身につけることができる、ということです。

 

 

菩薩のイメージは、一般に仏になる前の衆生をいいますが、このあり方を仏教では上求菩提(じょうぐぼだい)』と呼んでいます。

 

しかし、空海はここでそのような菩薩のあり方を求めていません。利他の力を問題にしていることから、むしろ、衆生を教化し救済する智慧の実践に菩薩のあり方を見ているのです。

 

このあり方を仏教では下化衆生(げけしゅじょう)』と呼んでいます。空海密教の核心は、この立場にあります。

 

空海が『下化衆生』の立場を強調しているのは、実は、人々に仏となって行為することを求めているからです。

 

仏の菩提心をもととし、衆生に向かって智慧を実践することによって、本当の意味の利他の力を身につけることができる、と言いたいのです。

 

 

空海は、菩薩の実践を通して仏の心となっていく道を考えているのです。

 

そこに人間のあるべきあり方、すなわち仏の大いなる仕事を実現するあるべきあり方を見ています。(『日本人のこころの言葉・空海』)

 

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