菩薩の用心は、
みな慈悲をもって本(もとい)とし、
利他をもって先(さき)とす。
よくこの心に住して
浅執(せんしゅう)を破(は)して
深教(じんきょう)に入るるは
利益(りやく)もっとも広し。
【現代語訳】
菩薩が心をつかうときは、すべて慈悲をもととし、他の者の幸せ(利益)を先としています。わたしたちもこの菩薩の心に住して、自分の浅いとらわれの心を破り、深い教えに入るるならば、最も広い幸せが得られます。(『秘蔵宝鑰』巻中)
秋雨前線と台風ラッシュ、2歳児奇跡の生還(2018/8/16)より
空海は、『秘蔵宝鑰』では「慈悲をもって本とし、利他を先とする」という言い方で菩薩の精神を述べています。
しかし、別の著書『三昧耶戒序(さんまやかいじょ)』では、菩薩の「大悲心」を「行願心(ぎょうがんしん)」と名づけ、その理由として「善人(ぼさつ)の用心は、他を先とし己を後とするからである」と述べています。
つまり行願心とは、一般に菩薩の修行を行い、衆生を救わんと願う心、すなわち自利利他の精神をいいいます。
【6と7の架け橋】人生の設計図(4)(2018/4/1)より
そうすると、空海における行願心の「行」は、自利(自己の悟り)としての修行をいうのではなく、利他行そのものが己の修行であることを意味しています。
すなわち、菩薩にとっての自利とは利他行のことであり、利他行が自利となっているあり方こそが正しい菩薩のあり方であることになります。
このことは、自利が利他の背後に消えてしまっていることを示しています。
空海が「慈悲をもって本とし、利他を先とする」と規定しているのは、そのような理解からでしょう。菩薩の用心とは、利他を本質とする心のあり方に他ならないということです。
空海は、この慈悲心に生きることによってはじめて自分の浅いとらわれの心を破り、深い教えに入ることができると考えています。この理解は極めて重要なことです。
自分の執着心を破り深い教えに入り、最も広い幸せが得られる心は、ただ菩薩の利他心のみである、と言っていることに他ならないからです。
文末にご紹介しております「高野山の法話#27」から
「最も広い幸せが得られる」とは、菩薩の慈悲は、結果として菩薩自身に最高の幸せを与えるということです。
この最高の幸せとは、当然、菩薩の‟智の完成”を意味しています。したがって、菩薩とは、利他の心と実践によって深い教えに入り、智を完成し、最高の喜びを生きる存在なのです。(引用終了)
【6と7の架け橋】人生の設計図(4)(2018/4/1)より
『22を超えてゆけ』の著者・辻麻里子さんが、(神様から?)見せられたビジョンのお話です。
湖が出てきました。湖の上空では、沢山の子どもたちが紐のようなもので吊るされています。湖の中には、その子どもたちの母親がいます。子どもたちを吊っていた紐が一斉に切れました。
当然、子どもたちは湖に落ちてしまいます。自分の子どもを救おうと母親たちは必死に泳ぎます。しかし、それぞれの母親の子どもたちは広い湖の最も離れた場所でもがいているのでした。
最も遠い位置にいる自分の子どもを救おうとしましたら、全員溺死してしまうという状況です。ところが、ある母親が自分に最も近い他人の子どもを抱きしめたら、あらら・・・子どもたち全員が助かったという結末でした。(引用終了)
高野山の法話#27「仏身即ち我が心」
必聴です






