弘法大師空海の「御遺告」(2) | 新MUのブログ

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2014年11月末をもって閉鎖した【MU(ムー)のブログ】の管理人です。
その節はお世話になりました。以前は時事問題を主に取り上げ
ましたが、各種事情により少しセーブします~♪

 

~初めに(真言宗)成立の由来を示す縁起第一~(その2)

 

勅命に天が応じて順調に海を渡ることができれば、我が国と唐との海路の距離は三千里である。以前からの例によれば、揚州や蘇州に到着し何の問題もなかった。

ところが、今回、わたくしの乗った船は、七百里も増して(南下し)衡州(こうしゅう)に漂着し、様々な難関に直面した。その間、遣唐大使の越前国の太守・正三位藤原朝臣賀能(ふじわらのあそんかのう)は、自ら親書を作って衡州の長官に送った。州の長官は、賀能の送った文書を披いて見ただけで捨ててしまった。

このように文書を送ることが二度、三度と繰り返された。しかしながら、船は閉じてしまい、一行を追いやって湿った砂辺に居らせた。

この時、大使の藤原賀能が、わたくしに「いったい今や、事態はきわめて憂うべき時です。貴僧は名文能筆の人であられます。(わたくしに代わって)文書を差し出してください」と申された。

そこでわたくしは、文書らしきものをしたため、大使に替わってかの州の長官に提出した。長官は披いてみて笑みを浮かべ、船を開き、事情の聴取などをした。すぐに都の長安に申し伝えるのに三十九日間が過ぎて(使者が帰着すると)、州の役所から世話係の者四人をいただき、あわせて物資や食糧を支給してくれた。州の長官は親切に尋ねられ、宿舎として仮の家屋十三棟を作って一行を住まわせた。


(過去記事)
密教界最大の超人~空海(4)
https://hama-sush-jp.pro/agnes99/entry-12536585644.html
密教界最大の超人~空海(5)
https://hama-sush-jp.pro/agnes99/entry-12539444833.html
 
 

五十八日間が過ぎると、遣唐使一行の安否を問う勅使などが来てくれた。その礼儀作法は極まりないものであった。これを見る唐側の人も我が国の人も、みなそれぞれ(感動の)涙を流した。

その次に(客である我々を迎えるための使者である)迎客使(げいかくし)が来てくれた。大使は七宝で飾られた鞍をいただき、同行の次々の遣唐使の者たちにはみな飾った(美しい)鞍が贈られた。長安に入る儀式は、筆舌に尽くすことができないものであった。この儀式を見ようとする人々が遠くにも近くにも、いっぱいであった。

しばらくして、大使の賀能大夫(五位の通称)たち一行は(全ての行事を終えて)さきに日本へ帰国することになった。時に延暦24年の仲春である。それは大唐の貞元21年にあたる。
 


この時わたくしと橘逸勢(たちばなのはやなり)は勅命に従って留学した。

すなわち、わたくしは首都長安の青龍寺の大徳(立派な仏者)で、宮中の内道場に出仕する十禅師の位にある恵果大阿闍梨にお逢いして、(仏の位を継ぐ密教の秘法である)五智灌頂(ごちかんじょう)を受け、大悲胎蔵法と金剛界の両部の秘密の法を学び、あわせて(恵果阿闍梨指導のもとに)『大日経』『金剛頂経』など二百巻あまりを読んだ。その中には新訳の経典や論書で、漢訳と梵本がともに存するものもあった。

わたくしは大同2年(807)に我が国に帰った。

帰国の船の中で、日本の天皇(桓武天皇)が崩御されたと人々が噂しあっていた。これを聞いてわたくしは噂の真偽の程を確かめようと、船内の人々に尋ねたが、あれこれと論じ争うばかりで、はっきりとしたことが判らなかった。

船が(九州に)着岸すると、ある人が告げて云った、(桓武)天皇がこれこれの日時に崩御された、と。わたくしは深い悲しみでいっぱいになり、白い衣をいただい(て喪に服し)た。

~神泉苑での出来事~