密教界最大の超人~空海(2) | 新MUのブログ

新MUのブログ

2014年11月末をもって閉鎖した【MU(ムー)のブログ】の管理人です。
その節はお世話になりました。以前は時事問題を主に取り上げ
ましたが、各種事情により少しセーブします~♪

 

◆ 求道者、空海の壮絶な修行

 

空海は奈良時代末期の宝亀5年(774)、四国の讃岐国(香川県)多度郡屏風浦に生まれた。父はこの地方の豪族・佐伯氏、母は阿刀氏の出身である。四国の佐伯氏は、かつて大和朝廷に征服された蝦夷(えみし)・・・この列島の山野に自由に生きた縄文人の末裔であり、阿刀氏は渡来人系の氏族だといわれる。

 

啓蟄の日の法事と「一二三の理」(2017/3/5)より

空海01

 

生涯を通して少年のように、山林に限りなく憧れ続けた空海。日常会話や漢詩、習字をも含めた漢学に、唐の学者が驚嘆するほどの才能を発揮した空海。そこには彼のこの出自が深く関係している。

 

幼名を‟真魚(まお)”と言った空海は、子どもの頃から利発な少年だった。12歳で讃岐の国学(地方の教育機関)に漢学を学び、同時に当代一流の学者として知られた伯父・阿刀大足(あとのおおたり)の教えを受けた。そして15歳の時、この伯父のすすめで都に上り、18歳で大学に入学を許される。

 

空海02

 

当時の大学は朝廷の役人を養成する機関で、卒業生には中央の高官になる道が開けていた。秀才・空海は地方の豪族の子弟にはまず無理なエリート・コースに乗ったのである。が、空海はその大学をドロップ・アウトしてしまう。儒教を中心としたその教育内容のつまらなさに絶望してしまったのだ。

 

「儒学には、目前の利益となり、助けになるところすらない・・・」

 

《人間とはなにか。それを知るために自分はどう生きればいいのか。大学の学問はそれを知る手がかりすら与えてくれない》

 

空海は、24歳の時に書いた三教指帰(さんごうしいき)』で言い切っている。

 

三教指帰(Wikipedia)より

 

大学を蒸発した空海は私度僧(しどそう)となり、真っすぐ山林を目指す。山岳修行者となったのだ。求道者空海の壮絶な修行時代が始まったのである。

 

《私の求めるところは仏教にこそあるのではないか》

 

空海はすでにそう感じていた。大学に入学する前、奈良の都で当時日本にあった仏教経典の多くに触れていたからだ。が、それを守る僧たちは、経典の解釈ばかりに力を注いでおり、やはり彼の疑問に答えてはくれなかった。

 

※私度僧とは

僧尼となることを得度(とくど)というが、律令時代には国家による一定の手続を要する許可制がとられていた。官の許可をえて得度したものを官度僧というのに対して、官の許可をえず私的に得度したものを私度僧という。

 

金峯山寺・蔵王権現~「京都・吉野の旅(3)」(2018/11/15)より

 

そこで空海は自らその疑問を解くべく、吉野の金峯山(きんぷさん)へ、高野山大峯山(おおみねさん)へと、ひたすら人跡まれな大自然の中へ踏み込んでいったのである。

 

紙子(紙の衣服)に荒縄の帯を締めてゴザを抱え、食を乞う托鉢用の木鉢と数珠を手にした、その姿のあまりのみすぼらしさに、貧者さえあざ笑うほどだった。たまたま、にぎやかな村落を通り過ぎようとすると、瓦礫が雨のように飛んできた。空海自身がそう書いている。

 

 

が、やがて空海はそんな山林の中で、ひとすじの光明をつかむ。密教の秘法『虚空蔵聞持法』の存在を知るのである。(『密教の本~驚くべき秘儀・修法の世界』より) (次回へ続く)

 

(過去記事)四国8の字の旅(5)

修験道の開祖・役行者~(3)(9/18)

 

 

この地図を覚えておいてください。近々アップする「弥勒下生と144,000人(3)」に関連してきますので・・・ではでは~神社