東日本大震災が発生してから今日で15年。
まずは、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
あの震災で、非常に多くの尊い命が犠牲になり、そして東北の町も産業も生活のすべてが破壊された。
15年経った今なお、2,519名の方々の行方が判っていない。
日本人として、決して忘れてはならない出来事のひとつ。
私も数十回に渡り、現地へ足を運び、支援活動を続けてきた。
あまりにも多くの被災状況を見聞きし、多くの被災者の方々から多くのお話を聞いてきているためか、まだ、たった15年しか経っていない、という感覚でしかない。
宮城県は悪天候やその他の理由で活動出来なかった場所もあるが、沿岸地区はすべて回った。
岩手県も20回以上は活動してきた。
福島県は、原発事故での放射能を恐れて、ボランティアでも行きたがらない人も多かった。
「俺が行く!」と私は迷うことなく福島県へは一番多く行った。
行方不明捜索で、爆発した福島第一原発の200m近くまでも幾度か行ってきた。
その活動中、多くの現状を実際に目にし、そして、多くの被災者の方々から震災のお話を多く聞かせて頂いた。
1000年に一度の大災害である。
被災者の方々からの体験談も、また1000年に一度の貴重なお話である。
私は被災者の方々から聞かせて頂いたお話はすべて、その場で走り書きでメモを取った。
勿論、そのメモのすべてはファイルに入れて今も大切に保管してある。
今回は去年の3/11の投稿に引き続き、私が支援活動で東北へ赴いた時に撮った写真のうち数枚と、現地で被災者の方々から聞かせて貰った震災でのお話のメモからふたつほど、共有いたします。
(投稿した写真と被災者の方々からのお話は一切関係ありません)

爆発した福島第一原発↓
(北側の浪江町より)
(南側の大熊町より)
放射能のため、防護服を着ての行方不明者捜索
2013/6
【福島県南相馬市】
支援作業内容;
放射能に汚染され居住不可となり、庭の広い農地も手放しざるを得なくなった農家の家財一式の撤去作業。
(結構な大きさの家とその前にかなり広い農地であるが、海岸から離れており、津波は来ていない。)
依頼主である60代くらいのご夫婦との会話。
-----以下、ご夫婦との会話・ご様子等------------------
元々は、この家にこちらのご夫婦のどちらかの母親、と子供たち、孫と4世代で暮らしていた。
現在はばらばら。
(旦那様)
津波も来てない、揺れでも瓦が少し落ちたり、テレビが一台倒れたくらい、
それなのにこの家には住めない。
それなのにこうやって手が掛る。
こんなことになるなら、よっぽど津波で家ごと全部流されてしまった方が良かった。
(奥様)
こんなことになって…と泣きながら玄関前の床を雑巾で拭いていた。
「近くからなんですか?」と聞かれたので
「いえ、東京から来ました」と言うと驚いていた。
(旦那様)(奥様)
3/12 15:00ごろ
福島第一原発が爆発
最初テレビで3キロ以内の住民が避難指示。
おばあちゃんがそれをテレビで確認していた。
その日の18:00ごろ、近くの国道6号をパトカーがしきりに通っていて何かをアナウンスしながら走っていたが何かは聞き取れなかった。
いやに多くのパトカーが通るな、と不思議だった。
19:00ごろ
防災無線で避難の指示が出され、何が何だか分からずに孫のミルクだけを持って逃げた。
家の前の道は大渋滞していた。
無理やり道に入り込んで逃げた。
最初はどちらへ逃げていいか判らず、山の方(浪江)方面へ逃げた。
そのあと川俣の方面へ逃げた。
今思うとすべて放射能の高い方面ばかりへ逃げていた。
最初は車の中で一泊した。
次の日は、学校の体育館にブルーシート一枚で寝た。
まだ赤ちゃんの孫もブルーシート一枚の床の上に寝かせた。
とにかく寒かった。
しかし、不思議とそこで風邪を引いた人がひとりもいなかった。
ただ、3日くらいするとごほんごほんと咳をする人も出てきた。
病は気から、という言葉が本当に感じた。
3日目、勝手に車の中で寝ていようとすると、警察から放射能が危険といわれ、体育館に戻された。
その体育館の中で、赤ちゃんにミルクを与えるためにお湯が欲しかった。
ようやく見つけて貰ってきたが、少し見ない間にポットごと盗まれた。
悲しかった。
今でこそ笑い話で話せるが当時はそうではなかった。みんな生きるために必死だった。
その避難所となった体育館もブルーシートの下に段ボールを敷くようになったが、それでも寒かった。
震災の翌日くらいから寒波が東北を襲ったので寒かった。
その避難所には、あまり長くいるところではないと判断し、早めにそこを出た。
現在は、旦那さんの妹の方の茨城のつくば市に住んでいて、時々ここへ戻ってきて掃除したり整理している。
爆発直後、ここの東電の社員とその家族だけはみんな先に逃げた。
政治家もなにもしてくれない。
東電からの農地への補償は、一反(約300坪)で5万円のみ。
農業の機械等は、その証拠となる写真を撮って見せないと受け付けられない。
(そのため午前中からデジカメで機械類の写真を奥様が何枚も撮っている)
また、補償額はその機械の減価償却分のみとのこと。
国からは全く保障などはしてくれないし、そんな気配すら感じられない様子。
小6の孫の女の子、検査した結果甲状腺に水疱が確認された。
再検査が必要だが、それは他の子供全員を検査した後に再検査となるため2年後とのこと。
検査する機関がほかにない。
東海村にもあるが、その対象はそこで原子力に関わる人のみにしか受けられない。
家もずっと帰れずネズミが大発生していて、それを餌にヘビが家の中に住み着くようになった。
この前も、そこ(部屋の窓辺)にヘビがいた。
屋根裏にはハクビシンが住み着き、天井にあちこちあるシミはハクビシンの尿がしみこんだもの。
外には猪とブタの混血のようなイノブタが横行している。
折角手入れをした花壇、トンパック(容量1,000リットルの布製の大きなゴミ袋)に入れて積み上げていたゴミも、そのイノブタが遊んでいたずらをしてしまい、一面に散らかすことがしばしばある。
帰って来ると足の踏み場もないくらいに散らかされている。
ここは野生のキツネやタヌキも出るところ。
今鳴いているのはキジだよー。(奥様)
庭の農地はもう放射能があるため出来ない。
そこで米や農作物を作っても放射能が検出されるので、食べることはできない。
もう、農業はやらない。
兼業だったからもうひとつの仕事で食べていく。
農家はいつの時代も悪い役ばかりさせられている。
江戸時代もそう、そして現在もそう。
近所の家は皆もう帰ってこないことを決定しているが、自分たちは出来ればまたこの家へ帰って来て住みたい。
先祖代々からこの土地にあり、この家だけでも45年ほどの築になるが、またここに住みたい。
最低でも5年や10年は先のことになるだろうが。
でも、こうして来てくれるなんて、有難いなー。きれいなところに来るんじゃないんだもん。(旦那様)
<作業終了時>
(奥様)皆さんの住所とか聞いておかなくていいのかな?
御礼状とか書かなくては…。
(我々ボランティア)「お互い様なので、大丈夫です」
帰り際、見送ってくれたご夫婦と握手をして別れたが、奥様は泣き出した。
-----ご夫婦との会話等、ここまで------------------
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2011/11
【岩手県陸前高田市】
支援作業内容;
被災者の方々がお住まいの仮設住宅の前の道の整備作業
以下、仮設住宅在住の会長Kさん、副会長Tさんのお話・会話等
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自治会 会長 Kさん(54歳)
3/11
パチンコ中に、かつて経験したことのない大きな地震に遭う。
津波は30年に一度来るとこの地方では言われている。
ラジオからは3mを超える津波が来ると放送される。
Kさんは部落の会長なので避難を呼び掛けて、自分は7mの防潮堤の上で海を見ていた。
ラジオからは3mと言われていたので、7mの防潮堤の上では大丈夫だと思っていたから。
水が引く。
一旦家に戻る。
再度防潮堤に見に行くと、水が50cm位普段より上の水位にあった。
海の方を見ると、水の壁が来ている。
その防潮堤から500mくらい先にある10mの灯台が水の壁に隠れるのが見えた。
7mの防潮堤の30cm位下まで水が来ている。
防潮堤を飛び降り、走って逃げる。
10mくらい逃げたら防潮堤を水が超えてきた。
もの凄い土煙りが立つ。
何とか避難所(お寺)に逃げ込む。
自分の家も流される。
ライフラインの全てが流される。
どん底の生活が始まる。ほんとうに、もう、どん底だった。
避難所であるお寺に100人が避難する。
多少の蓄えがあったとしても、米が初日でなくなる。
3日目には、ひとつのおにぎりを半分に分けて食べる。
4、5日は物が入ってこなかった。
その後、支援物資が大量に届いた。
日本人に生まれて良かったと思った。涙が出そうなくらい有難かった。
しかし、支援物資の食糧も、米、カップめん、菓子パン、などばかりで、
三食それなので、イヤになってしまう。
3/28
震災後初の風呂に入れる。
トイレは20日以上使えない。
男性は山でどうぞ、女性はトイレに入れるが、水道が使えないので汲んで来た水を流す。
自衛官、消防官、警察官には特にありがたいと思っている。
大川町は谷のように入り組んだ地形に水が入り寸断されて孤島のようになった。
支援してくれた人に対してお礼することが出来ないのが悔しい、歯がゆい。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」
そんな気持ちです。
お礼したくても何もお礼出来るものがない。
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注)兼明親王(かねあきらしんのう)後拾遺和歌集に掲載されている古歌。
まだ太田道灌が「資長」と名乗っていた若き頃、鷹狩りの途中、雨に降られ一軒の農家に蓑を借りに立ち寄った。
しかし、その家の娘は蓑の代わりに黙って一枝の山吹を差し出した。道灌は怒って帰ってしまった。
これを聞いた家臣の中村重頼は
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」
という古歌を示し「実の」に「蓑」をかけ、貸してやりたくとも蓑が無い悲しさを和歌に託して伝えようとしたことを道灌に話して聞かせた。
道灌は自分の無知を深く恥じ、後にこの娘を側室として城に住まわせた。
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恐らく、交通費等もご自分で出されて来ているんですよね?
本当に有難いです。
復興、復旧が一番のお礼かな、と勝手に思っている。
この2、3年のうちには必ず復興して見せます。
その時は、本当に、ただ遊びに来てください。
7/3にこの仮設住宅ができた。
3歳から90歳まで居る。
Kさんは7/28に仮設住宅入居。
至る所から支援が来る。
既に3世帯この仮設住宅を出た。
国の方針が決まらないので、国が悪い。
愚痴言っても良いですか?
国は生命と財産を守るもの。
しかし何もしていない。
高台移転のことも何も話しが進まない。
政治家の松本、9日で辞めた。
政治家は誰も責任を取らない。
バシバシ文句を言ってやりたい。
Kさんの家は過去の三陸津波でも流されている。
津波で逃げる時、シートベルトをしたまま亡くなった人は多い。
車で逃げて、その先で大混雑していた。
その大混雑で交通事故に遭って倒れたまま、そのまま津波にのまれて犠牲になった人も多かったはず。
副会長、Tさん
会長Kさんとは同級生。
それ以降、進んだ道は全く違う。
Tさんはアワビ、カキ、を採る漁師。
とにかく、コミュニケーションをとることを大切にするように呼び掛けている。
水で助かる。(井戸の水、山の水)
薪で火を起こせる。
電灯、蝋燭、ラジオ、は必ず用意しておくように。
津波で逃げる時は、道路を通って逃げてはだめ。
道路は川になる。崖をよじ登っていくこと。
一度避難したら、まだ津波が来ないからといって家に物を取りに行った人はみんなやられている。
絶対に安全になるまで家に戻ったりしてはいけない。
津波の水は普通の水ではない。色んなものが混じっているので、口の中に入れた時点で死んでしまう。
溺れ死にではない。
だから、津波は凄い臭いがする。
(私)そうですよね、私も初めて石巻に行った時に嗅いだあの臭いはひどかった。と答える。
救援物資があんなに大量に来たことを少し不思議がって
(Tさん)「あんなに大量に送ったら、送ってくれた所物無くなったんじゃないかと思ったんだけどな」
(私)「東京も無くなりましたよ。トイレットペーパーと乳製品とかは全部無くなりましたよ。でもそれに関して誰も文句言いませんでしたよ。私も何度も送りましたよ」と答えた。
Tさん、黙ってうつむいていた。
(私)今何か困っていることはありますか?と訊くと
(Tさん)「高台移転の話しが進まないことだね」との答え。
救援物資はとりあえず足りている様子。
Tさんが名刺を一番最初に私にくれた。
先日、生活支援で行われたパソコン教室で作ったものとのこと。
Kさんは名刺が切れて、今日のパソコン教室で作る予定とのこと。
Tさんのアワビ取りは凄いとKさんが言っていた。
Kさんが5kg取るところTさんが50kgも取る、
体格は自分(Kさん)の方がいいのに、これはすごい、と笑っていた。
(私)「じゃ今度、アワビを」と冗談を言うと、(Tさん)「あ、いいいよ!」とはじめてタメ口で話してくれた。
アワビの件は本当に良いらしい。
Tさんと握手した。凄い握力。
Kさんとも握手。
仮設住宅に住む被災された女性(お名前不明)。
「救援物資等貰っていますけど、私たちは惨めではないんですよ。」
被災された方々に、決して、上から目線で接してはいけないことを改めて確認させられた。
--------被災者の方々のお話等ここまで-----------------------------------
最後の女性の
「救援物資等貰っていますけど、私たちは惨めではないんですよ。」
という言葉は非常に気を付けなくてはならない大切な話である。
極々少数ではあったであろうが、当時、食料が全くない被災者への食料物資支援で、「贅沢は言うなよ!」と家に買い置きしてあったカップ麺の中から賞味期限の切れたものだけを選んで送った人や、自分の家で飼っているペットが食べたがらずに処分に困っていた開封済みのペットフードを食料支援物資として送った最低な輩なども私は実際に見てきているが、さすがに人間性を疑う。
被災者の方々も同じ人間なのである。
そして、いつ、今度は自身が被災者の立場になるか分らないのである。
自分が被災者の立場になった時、そのような支援対応をされたらどういう気持ちになるであろうか。
私自身は、そういった所は活動ごとに毎回十分に気を付けてはいたが、支援活動での考え方を、この時改めて引き締めさせられた。
(余談ではあるが、ペットフードを送った人物とは、そういった支援について、その後私と激しく衝突した。さすがに許せなかった。)
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この震災のことは、日本人なら絶対に忘れてはいけな災害であるし、毎年3月11日だけは、ほんの一瞬でも構わないので黙祷する時間を作らなくてはならない、と思う。
では。









