うちの長男猫コジ、18歳半なんやけど今年に入って何度も三途の川を渡りかけてる。
昨年の秋にも一度危ないかなってときがあって、そのときは随分泣いた。
行きつ戻りつを繰り返す中で、「どのみちいずれ生き物の命が終わることは止められないなら、お別れ自体はしょうがない。でも限りある時間の中で考えたらコジのこの一生は随分いいものだったのでは?」と思うようになったんね。
18年半という長い時間ずっと一緒に居ることが出来て、最終盤の今もすごくしんどそうなわけではない。
自力で食べなくなって一日数度の強制給餌だけなのでガリガリの骨と皮みたいになったのを見ると切なくはあるけど、そうして身軽になっていくのが動物としての逝く準備なのだとしたら自然な姿かもしれない。
と、まぁいろいろ考えていたんやけど。
ここ二日ぐらいで急激に復調してまた自分でご飯の場所まで行って催促してお皿から食べたり、多少ふらつくもののソファに上って休んだりして、全く驚いている。
だって数日前には横たわってうつろな目をして、もう音にも刺激にも反応すらしなかったのに。
自力で湯たんぽへ。(黒いのがコジ)
そのことについて昨日、受講者さんと話してたんね。
その中でこの復活につながった要素の一つとして「好きなものを食べさせた」があるのではないか、という話になったん。
獣医さんからは強制給餌でなるべくカロリーの高いものを食べさせるようにと、回復食の缶詰をもらったりしてたん。
強制給餌は飼い主にとっても辛い作業。
嫌がってるのに無理に口にシリンジを突っ込んで食べさせるのは、猫にとっては虐待に近いかもしれない。
実際これによって嫌われてしまう飼い主も多いというから、最後の時間に嫌がることをして嫌われるのは命を繋ぐためとはいえなんとも切ないことではある。
で、あるとき私は「もし自分なら人生の最後にどうしても何か口に入れないといけないのなら、せめて好きなものが食べたい」と思ったんね。
だからもうカロリーとか気にせずに、コジが好きなご飯をシリンジで食べられるように離乳食みたいにすり鉢でなめらかにしてやってみるようにした。
これを何日か続けた後、ちょっと食べ物の匂いに反応するようになった。
そして朝は空腹感を感じたのかスプーンにのせて近づけると自分で舐めるようになり、そこから自力で食べるまでになった。
食の力って大きいなぁと感じた。
コジが食べたいと思ってる内は生きるつもりがあるんやろと思って、もうしばらくは私に出来ることをしながら様子を見ていくつもり。
ここ数日が調子いいからといってもう「元通り元気になる」フェーズでないのはわかってるので、あとは穏やかにゆるやかになるべく自然に、という気持ちで。
で、そんな話の流れから、受講者さんのご両親が現在病院や施設におられて、そこでの食事の話にもなった。
そこでは効率と栄養価という面でしか食事は考えられてなくて、食事はもう楽しみではない、と。
高齢で何かしら疾患を抱えている人たちの食事こそ、効率とは違う基準であと何食かわからない人生での「食べる」機会を豊かにしてあげたいものだ、と。
昔から私には子どもと老人が笑って暮らせる国が豊かな国、という気持ちがある。
今の日本って・・・って思わずにはいられない。
自分も還暦間近で人生の終わり方について考えるとき、話に聞くような老人施設での終わりは嫌やなと思う。
理想は自分のプライベート空間が確保されていて、でも何かしらのコミュニティの中にはいて、そこには自然や動物との触れ合いがあって、音楽と本があり心穏やかに話せる相手がいて、食べれる間は食べたいものを適量食べて過ごしたい。
みんな考えることなんやろけど、やっぱりそういうのがいいよね。
これを「理想」と諦めてしまう前に今自分にできることは何か?
まずは日々を健やかに過ごすこと、心身を整えておくこと。
結局はそれしかなくて、その先に「資金を作る」とか「仲間を作る」とかがあるんやろう。
猫と人間を比べてはいけないとは思うけど、それでもやっぱり世の中の猫飼いがみんな「最期は穏やかに過ごして欲しい」と愛を持って環境を整えるみたいに、人間の最後も穏やかに自然に任せて去っていける環境が必要やと思う。
昔からちらちらと夢見ていた理想郷がある。
自然の中の保護猫施設には幼稚園と老人施設も併設されてて、お年寄りは望めば子供たちや猫らと触れ合える。
エネルギーの塊のような子供たちが居て、もうすぐ去っていく老人たちが居て、ただ自然のままに生きる猫らが居て。
窓の外には緑が見えて、四季の移り変わりを感じることが出来て、遠くで子供が笑う声が聞こえ、鳥の声が聞こえ、風の音や雨の音が聞こえる。
頼りになる施設長がいて、きびきび働くよく気のつく明るいスタッフたちがいて、施設での暮らしを配信するとか何かしらのプロダクトを販売するとか宿泊施設を設けるとか、きちんとお金の流れも自力で作れていて。
そこでは誰も薬漬けにされず、従順さを押し付けられず、ちょっとぐらいわがままでもはみ出していても個性として受け入れられる。
大昔の日本みたいにおおらかで豊かな気持ちのいい場所。
一応ね、私も未来数は9なもんで、こういう世界を妄想することはあるのよ。
そして過去数の4と基本数の5が「でもそれ実現するにはなんぼ要るねん?」と現実的にそろばんを弾いて「ううむ・・・」ってなるんやけども。
それでもさ、今私はオンラインで日本中(たまに世界中)のたくさんの人とお話する機会があって、みなさんがやってること・これからやりたいことを伺ってると、そういうみんなの力を結集出来たらあながち叶わん夢でもないな、と思ったりはしてる。
特に33の人と話す機会が多いけど、農業に関わっている人、食に関わる人、自然療法に関わる人、人を癒したい人、動物を癒したい人・・・そういう人たちがたくさん居る。
何かそういう人たちを繋いでいくことができたら、きっと理想は現実になるんやろう、といううっすらとした希望は持っている。
だからまずは夢見ていようと思う。
数秘的に見れば私は「実行者」ではないかもしれない。
数字的には私は「企画者」であり「方向を指し示し知恵を授ける者」なのかもしれないから、実現に向けて実際に動いてくれる人たちと出会う時がくれば夢は形になっていくだろう。
だから今は善きタイミングを待ちながら、遠くに夢を置きつつ、日々現実的に生きる。
現実的に・・・
あと二日で新講座の資料は出来るんかな・・・(;Д;)
そんなわけで今から現実に戻って資料作りに励みます。
