西郷隆盛暗殺計画の存在を政府に問責する大儀名文の下、西郷軍は明治10年2月15日~17日にかけて、鹿児島を進発する。
電気通信で状況を把握した政府は、機敏で・・・
急ぎ・・・熊本鎮台の固守と各鎮台への動員が発令!2月22日・・・・西郷軍は、鎮台司令官谷 千城(たに たてき)少将以下約3300名が篭城する熊本城を包囲、3日間に渡って攻撃をかけるも、熊本城の堅固さと鎮台兵の善戦に阻まれて、攻撃に失敗!!
西郷軍も、その後巻き返しをはかるも・・・熊本城の開放は、八代湾に上陸した政府軍別働隊の北上によって4月15日に達成された。
加藤清正が築城・・・・
戦に向けての守りの堅い城と、難攻不落の熊本城を築城も・・・本人の思いとうらはらに、徳川政権では・・・・もはや戦国時代のような戦が起こる事もなく・・・・後にこの地に入ってきた細川氏は、城内の中での暮らしにくさに・・・・今の熊本市交通センターバスターミナル付近から市役所辺り一帯に・・・・広大な庭を持つ殿様の住居を構えました。
その名残の一部が、交通センター前の公園として残っています。
もともと西郷さんも挙兵する気はなかったのではないだろうか・・・・
幕末坂本龍馬や中岡慎太郎達と交流を続け・・・・敵対していた長州藩とも手を結び・・・・
幕府 江戸城無血開城にも成功・・・鹿児島県士族への授産 教育のための私学校の創立にもかかわり・・・続発する不平士族の反乱にも、応じることはなかったのだ。
しかし、私学校の生徒の暴発から西南戦争が勃発!
乞われるままにその指導者となり、最後は城山で自刃して果てました。
一方・・・谷 千城(たに たてき)は、1837~1911年まで生存した人物で、慶応2年(1866年)末・・・長崎に出て、坂本龍馬や後藤象二郎と関り影響を受けた人物。 龍馬暗殺の現場にも、真っ先に駆けつけた一人である。
維新後は軍人として活躍して、第一次伊藤博文内閣では農商務大臣を務めた人物。75歳で死去しました。
この・・・・幕末・・・・
共に龍馬や慎太郎と関り・・・・
新しい日本の夜明けを目指していた二人が、この九州熊本 の地にて敵対してしまうなんて、なんとゆう運命でしょうか・・・
この熊本城には重要文化財として残っているものの中に・・・・
この白い倉のような建物郡があります。西南戦争時・・・突然起こった謎の火災からも唯一助かった建物の一つなんですが、
こちらは、ぐる~と市役所から回り込んだ位置に残っています。
皮肉な話・・・・
清正の城は、明治という近代国家になってからやっとその城の役割を果たしたというような感じですね!
今この倉を見上げるような位置にある・・・・城の下・・・・高橋公園に、横井小楠と維新像なるものがあります。
小楠を敬い、維新や改革にその思想を取り込んだ人々と、小楠の事跡を記念して建立されました。
小楠を中央に左から坂本龍馬 勝海舟 松平春嶽 細川護久の像が・・・・・
そして、・・・・
谷 千城の立派な像もその横に並んで・・・・
建っていました!(・∀・)
恥ずかしながら谷さんの功績をまだ把握していなくて、
こんな銅像が熊本市にあることさえ知りませんでした。
(ノ´▽`)ノ同じ土佐の民が守った熊本城と谷 千城さんの事も、もっと土佐の人も知っていてもいいと思います!!
しかも作者は大分県の朝倉文夫じゃないですか!?
この方はこうした彫刻で有名な方みたいですよ。 大分には沢山彼の作品が道に溢れていたりして・・・








