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精神医療・精神保健において、
薬物依存に偏らないオルタナティブな視点を大切にしています。
心のこと、精神医療のこと、日々の気づきや小さな活動まで、
感じたことを綴っていく場所です。
🌏 第5章 過剰適応という罠
—孤独な救世主の終焉—
社会や親は、子供に「幸せになってほしい」と願う一方で、無意識に「手がかからない存在」であってほしいとも思っています。
人は誰しも、扱いやすい他者を好むからです。
その空気の中で、私は「いい子」という究極の適応を学びました。
それは、家庭という戦場で生き延びるための、あまりに有能で、あまりに孤独な「救世主」としての道でした。
期待という名の「雑な扱い」
過剰適応の人間は、周囲の期待を瞬時に察知します。
誰が困っているか、何が正解か。
それを察して動くため、周囲からは重宝されますが、それは「理解」されているのとは違います。
「いい子」でい続ける人は、最も手がかからない分、最も雑に扱われてしまうのです。
夫婦喧嘩を仲裁し、母のカウンセラー役を完璧にこなす私。
母にとって私は、自分の正当性を支えるための「便利な装置」になっていました。
母の「普通」という名の凶器
母の口癖は、いつも「私の方がもっと苦労した」でした。
母にとっての「普通」は、学費免除のための特待生を維持しながらアルバイトをして高校生の頃から親に金を渡してきた、自分のその壮絶な過去が基準でした。
そのバグった定規を当てられた私にとって、ぼーっとしていることや、やりたいことを優先させることは、それだけで「欠陥品」の烙印を押される罪悪感に直結していました。
母のメタ認知の欠如は、私に「マイナスからのスタート」を強いました。
「もっと頑張らなければ、私はここにいてはいけない」。
それは洗脳に近い感覚でした。
平和という名の綱渡り
私がなぜ、これほどまでに「怒れない」人間になったのか。
それは、毎日繰り返される激しい夫婦喧嘩を収めるために、自分の主張をゴミ箱に捨て続けてきたからです。
「争いを避けること」が絶対的な正義となり、磨き上げられた「他人の顔色を見る能力」は、生き地獄を生き抜くための悲しいほど高性能な武器になりました。
救世主が闇を見る時
けれど、「いい子」は時に、周囲に強烈な「重さ」を振りまきます。
「いい子でいれば、見捨てないよね?」という剥き出しの飢え。
自分の不幸を担保にして、友人にまで「自分を救う責任」を押し付けようとする依存。
自分の「個」を後回しにし続け、家庭の綻びを一人で縫い合わせ続けた結果、救世主という役割は自分を絞め殺す縄に変わっていました。
そしてある日、糸が切れたように動けなくなった。
それが、私が「うつ状態」として倒れた瞬間でした。
スパルタの果ての「激甘なシェルター」
倒れた私に、母は「うつは真面目な人間がなるものだ。お前みたいな適当な人間がうつになるはずがない。ただのなまけものだ」と言い放ちました。
救世主として心血を注いできた日々のすべてを否定された時の絶望。
逃げ場を失った私にとって、精神医療の世界は「頑張らなくていい」「病気のせいです」と言ってくれる、拍子抜けするほど「激甘」なシェルターに見えました。
母の言葉という暴力から逃れるために、私は「患者」という役割の中に逃げ込みました。
罪悪感という最後の鎖
けれど、シェルターの中でも私は震えていました。
「病気のふりをして、ごめんなさい」と、心の中で誰にともなく謝り続けていました。
患者になることもまた、私にとっては切実な生存戦略でした。
けれど、そのどちらも「人生を引き受ける主体」ではありません。
親の顔色の代わりに、今度は「診断名」や「薬」に自分の命運を預けようとしていたのです。
その深い霧の中から、どうやって「いい子」も「患者」もやめていったのか。
ようやく、その「夜明け」の話ができる気がします。
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