『風立ちぬ』は戦前の飛行機開発を中心に据えたアニメ映画である。『紅の豚』から宮崎監督はそうとうの戦闘機、とくに零戦マニアであることがうかがえたので、飛行機開発にまつわる作品が手がけられたこと自体はさほど意外ではない。
私は詳しくはないのだが、家人に戦闘機マニアがいる。彼の部屋はいまだに軍や戦争関係の雑誌や本、プラモデル、自作の木製戦闘機などであふれかえっている。彼は家を出て入隊してパイロットになるのだが、まだ小学生だった私は、暇なときなどに、部屋に残された資料をあさったりはした。また堀越二郎についてはそれとは別に関心があったので、戦前の戦闘機開発について全く不案内というわけではない。
宮崎監督は、おそらくその彼と同じくらいのマニアではないかと思う。ただし、違うのは宮崎監督が世界的なアニメーション監督であり、なうてのリベラル派であることだ。零戦の血湧き肉踊る開発物語や快進撃や悲劇を、宮崎監督がそのまま描くことはできない。
堀越二郎を主人公にすることは、圧倒的に列強に劣っていた工業技術を、血をにじむような努力でわずかな期間で追いつき、日本を中心にアジアを欧米に対抗させようとした戦前の日本人を肯定的に描くことである。
私が知りたかったのは、リベラル派である立場から堀越二郎を描くことの矛盾を、宮崎監督がどうやって折り合いをつけるかにあった。
もちろん普通の人なら、堀越二郎だけを描くことにそのような葛藤は生まれない。だが、宮崎監督の作品は世界中が注目する国境を越えるものである。「日本帝国」に過敏な韓国や中国のジブリフリークの目を意識せざるをえない。だからこそ、これまで零戦マニアからの立場から正面切って飛行機を描くことが難しかったのだろう。
そこで宮崎監督は堀越二郎の物語を、大胆にも堀辰雄の世界に取り込んでしまう。
堀辰雄の世界とは「美しい自然に住む美しい少女が、死という装置で永遠に透明化されたままで描かれる美しい物語」のことである。堀越二郎をそんな透明化された世界の住人にすることで、日本軍や戦争とは別世界の住人にしたて、「天才戦闘機開発者」のイメージを最大限に薄めようとしたわけだ。
そう考えると、この作品が「堀越二郎物語」としていかに屈折しているかわかる。そもそも堀越二郎は堀辰雄的なものとは無関係であり、両者を統合する必然性など何もない。単に作る側の都合である。
言い換えると、『風立ちぬ』の堀越二郎は「堀越二郎」という器を冠しただけの架空の存在にすぎない。宮崎映画の主人公少女たちのように、実在する堀越二郎までも透明化してして自分の作品に登場させたわけである。
もちろん、アニメは実写映画以上に「作り物」であって、そこに「リアリズム」を求めるのは賢明ではないのかもしれない。
アニメがリアリズムになりえないのは、その登場人物が記号化されているからである。悪役は悪役であり、善の面を持つことは許されない。正義の味方はどこまでも正義の発言をしていくしかない。誕生から極端さと誇張が運命づけられた存在であり、その点を変えることはできない。
リアリズムを作りたければ、自覚的に実写に限りなく近い表情や声をアニメーションによって作り上げればよいが、それはジブリ的なものと相性が良いかどうかとは別である。
同様に、日本で声優という分野が一大マーケットになっているは、アニメにおけるセリフがセリフではなく記号だからである。かわいいキャラクターに合うように、かわいい声でかわいいセリフを発することが声優としての技術である。声優の声は記号化された純粋な作り物であり、そこに不純物があってはならない。
さて、『風立ちぬ』という作品を簡単に表現するなら、純粋に物作りに取り組む若者の、純粋な恋愛物語と言うことができる。この作品で画期的なのは、宮崎作品の主人公少女を透明化する装置であった処女性が、「死」に置き換わったことである。つまり、これまでの「子供の物語」から「大人の物語」に描く内容が成熟したことになる(以下、内容に踏み込むので、知りたくない方はここまで)。
ただし、主人公二郎の初恋の相手であり結婚相手となる菜穂子との生活は、妻として寄り添い、女性としての美しさが保てたごく短期間に過ぎない。菜穂子は自分の病状が進むと、二郎に黙って軽井沢の療養所に戻ってしまう。だから、成熟した恋愛というよりは、やや少女趣味な要素の強い美しい恋愛物語に近いだろう。どう言いつくろおうが、そういった女性の描き方は、少女期から大人になっていくまでの女性の美しさのみを肯定する男のエゴである(もちろん、それが悪いわけではない)。
菜穂子との短い結婚生活のうちに、二郎は日本の空軍力を一変させる零戦を開発し、数十年遅れていた列強の空軍力の差を一気に埋めて、航空力学での性能部分で追い抜いてしまう。だが、その肝心の飛行機を飛行場まで丸二日かけて運ぶのは飛行機会社が飼っている牛たちであり、非力なエンジンを補うための軽量化によって(二郎はエンジンには関わっていない)零戦は簡単に撃墜されてしまうほど機体は脆かった。
二郎がどんなに天才で、どんなにすばらしい戦闘機を作ったとしても、日本が勝利することなどありえない。二郎はそんな敗戦の宿命を知っていながら、物作りに真剣に取り組む。それは、二郎にとって、飛行機は敵を殲滅するための武器などではなく、先人から託された夢の乗り物だからにほかならない。
物語の最後では、戦後の廃墟の中で、彼が子供の時から敬愛し、彼の夢の中で存在するイタリア人飛行機開発者のカプローニによって、飛行機の夢の続きを託される。その夢を天国に向かう菜穂子が声援して、命がけで愛し抜いてくれたことを感謝するところで、物語は唐突にエンディングになる。
ところで、この夢の中でのカプローニとの対話は、二郎が幼年のときからから延々と続いている。実はこれが最初に述べた、「リベラル派が戦争に参加する日本人を美しく描く」という矛楯を昇華して見えにくくする装置と働いている。
カプローニは戦闘機ではなく美しく独創的な旅客機を作るために飛行機開発を続けており、戦争はその開発のための方便として使っているしたたかな人物として描かれている。
二郎もそのカプローニに共感し、戦闘機ではなく、純粋に美しい飛行機を開発しようとする。この「夢」によって「戦争」という現実が薄められ、現実の「戦争のための飛行機開発」という二郎の仕事は、単なる「方便」に書き換えられている。カプローニという人物は、リベラル派のまま堀越二郎を描くための装置としてうまく作用していると言ってよい。
こうやって見ていくとわかるかもしれないが、列強との技術力の開きや大きな困難の中で物作りに夢中になる堀越二郎とは、ようするに宮崎駿その人のことである。
宮崎監督は、アメリカのディズニーに圧倒的されながらも、孤軍奮闘して世界にも認められた先行者である手塚治虫の戦いに励まされながら、その夢を引き継いだ天才アニメーターである。
宮崎監督は、アメリカと比べて圧倒的に不利な環境と困難を乗り越えて、今や世界的な評価を勝ち得ている代表的な日本人の一人であり、その努力は堀越二郎のような純粋な物作りへの情熱によって導かれているのだろう。宮崎監督が堀越二郎を尊敬するは、同じ天才としての苦しみや喜びを二郎に見出せるからにちがいない。
ところで、宮崎監督は自分の作品からプロ声優を排除することで知られている。それは、自分の作品が記号化するのを回避して、そこにアニメでは禁忌すべき人間性や複雑な思いを込めるためではないだろうか。
今回の堀越二郎に至っては、声優業に関しては全くの素人であるが、宮崎駿と同じく優れたアニメーターとして評価の高い庵野秀明氏を起用している。それは透明化された堀越二郎という器に、同じアニメーターとして自分と庵野だけが共有できる迷いや苦悩を表現できると考えてのことではないだろうか。
また、宮崎監督はカプローニの口を借りて、「物作りを志す者は、若いときの10年間が重要だ」といったことを言わせる。これは言うまでもなく、宮崎駿からこれからの若者に伝えたかったメッセージだろう。このように、『風立ちぬ』は宮崎駿流の物作りの哲学を若者に託するための作品でもある。
最後に映画の評価を述べたい。
『風立ちぬ」は宮崎駿が自分に引き寄せて紡ぎ上げた初めての作品である。だから、そこにはこれまでの作品にあったようなエンターテイメント性がなく、いやでもだからこそ、共感できる人には心をつかまられるような感動がある作品に仕上がっている。
ジブリ独特の美しい絵と描写のすばらしさやテンポの良さ、そして何と言っても、久石譲氏の美しい音楽によって、それだけでも見る価値のある作品たりえている。最後に淡々とした歌唱法で空へのあこがれを歌い上げるユーミンの曲が流れたとき、言いようもない感動に涙する人も多いだろうと思う。
『風立ちぬ』がすばらしい映画作品であることは間違いない。「見たほうがいいか」と聞かれたら、「見るべきだ」と答える。
ただし、私はさほど共感できなかったし、感動もできなかった。堀越二郎は私にとっても「アイドル」であるが、それは『風立ちぬ』の堀越二郎とは全く別の人物である。そのことについて不愉快な気持ちもないではない。
宮崎作品については、映画館で見た『となりのトトロ』が最高の作品で、『魔女の宅急便』までが私にとっての宮崎駿である。それ以降の作品が感動できないのは、もちろん作品の質が下がったからであるはずがなく(宮崎作品は出すごとに世界的評価が高まっている)、見ている私のほうが変わったせいだと思う。






