【父と私】
今日で父の仕事人生に、
終止符が打たれた。
父は研究ばかで、仕事ばかなひとだった。
父が33歳、私が3歳、弟が2歳まで、
父は大学院に残った研究生。
当時我が家に収入はほとんどなく、
貧乏ながら母がなんとか、
私たちを喜ばせようと練ってくれていた。
それでも父は、
コツコツと研究、論文を重ね、
異例のスピードで教授まで上がっていった。
たいそうなかんしゃく持ちで短気者。
美味しくないという理由で皿が飛び、
ゲームが下手だと怒鳴られる。
だけど同時に、父が私のことを
可愛くてたまらないということも、
子どもの頃から知っていた。
帰宅時、家族がおかえりなさい、と
玄関へのお迎えがないと不機嫌になる。
日曜日の朝には、
突然、おい、海に行くぞ、
と言っては、私たちを喜ばせた。
海、キャンプ、釣り、トランプ、
ボードゲーム、花札…遊びは尽きなかった。
幼い頃、一番嬉しかったのは、
ジブリの映画のテレビ放送。
このときだけは、夜更かしテレビが許される。
父の膝の上で、
観ている間にこっそりと眠るのが、
至福のときだった。
眠たそうなのが見つかっては、
布団に行けと終わりを迎える。
いかにバレずに寝るかをいつも考えていた。
※※※
自宅には、いつしか、
学生さんたちが遊びに来るようになった。
10人を超える大学生の兄ちゃん姉ちゃんが、
我が家で飲みながら過ごす。
母は、メンバーによっては、
小学生の私でも、時に徹夜を許してくれた。
こどもの私には、
大学生ははるか大人に見え、刺激的で、
トランプゲームで盛り上がり、
真夜中の恋愛論に耳を傾け、
将来の夢を熱く語った。
父が酔い潰れたあとは、
先生はいつも、娘にもらったんだと
ネクタイや日本酒を自慢しているよ、と
学生さんたちから聞いていた。
父の日、ネクタイの封を開けた瞬間、
なんだ、この変な柄は、と放り投げ、
お礼も言わず、
翌日にはいそいそとつけていき、
日々ヘビーユーズする父の姿は、
こどもながらに、笑えていて。
時にろれつが回らない口で、
俺はなぁ、娘が男を連れてきたら、
一升瓶を二本用意する。
そして意地でも一本飲み干し、
意地でも一本飲ませるんだ、
と学生に絡んでいた。
実際にオットを連れて行ったときには、
照れに照れて正座を制止し、
こんなやつ熨斗つけてやるから、
返品だけはできんからな!と
挨拶もさせなかったのだけど。
※※※
ありがとうも褒め言葉も
生まれてこのかた一度も聞いたことがなく、
馬鹿だの何だのけなされてばかりだったが、
何かをしたいと言ったときは、
返事は300%、
「ふん、知るか、勝手にしろ」
つまり、OKだと脳内変換をする私。
結果、やりたいことを否定されたことはない、というめでたい記憶になっている。
おまえは馬鹿か!はもちろん素通り。
言葉は、言葉通りではないのだと、
早い時期に、父から学んだ。
父にとって私は、
恐らくこの世でいちばんの愛おしい存在だった。
(あ、今は孫に負けたかも、笑)
朝まで学生さんたちと過ごし、
家族で夜中の2時にラーメン、
期末テストの前日には家族カラオケ、
中学生から父とビールを飲んだこども時代。
これは
普通の会社員ではない父だからこその環境で。
おかげで本の虫だった私は、
自由で、わがままで、
思い立ったらすぐ行動、の私となった。
※※※
父のことを素直に思えているのは、
母の存在も大きい。
けして心を語ることのない父の思いを、
本当はね、お父さん、こうなのよ、と、
母はいつもこっそりと教えてくれていた。
お父さん、
あなたが自分と同じ仕事(大学の先生)したいって言ってたの、本当はすごく嬉しかったのよ。
お父さん、あなたたちを喜ばせたいのよ。
お父さん、本当はすごくさみしいのよ。
お父さん、自分じゃ言えないのよ。
かんしゃく持ちで気も回らない父のもと、
母は相当な、相当な苦労をしたが、
母もまた、明るいひとで。
子どもの頃から、
我が家はいろいろあるけれど
この両親の元に生まれてよかったと、
こころから素直に思えていたのは、
この母あってのことだと思う。
あなたは絶対に、しあわせな人生を送る。
人にもお金にも恵まれて、
困っても誰かが助けてくれて、
やりたいことをやれる人生を送るから、
絶対に大丈夫。
我が家にお金がない幼い頃から、
繰り返し、
繰り返し母から刷り込まれたことば。
今ではオットが、言ってくれている。
そうそう、
いまや、かんしゃく持ちは息を潜め、
好々爺の面持ちで、孫達を見つめております。
今日で、定年退職。
週一で大学には通うようだけれど。
父も、母も、お疲れさまでした。
ありがとうございました。
ここからは、めいっぱい、
孫育て、お願い致します🙏