今日は、と言っても日付は変ってしまいましたが、終戦記念日。
実家でテレビも見ずに過ごした私は、あまり意識せずに終わってしまいましたが、やはりここで一度振り返っておこうと思います。
毎年恒例の、祖父の話はこちらです。
長いですが、よろしければご一読下さい。
そしてもう10年も前になりますが、学生時代、チューク島(旧トラック島)に2度ほど滞在し、日本語教育を受けたおじいちゃんたちの聞きこみ調査を行ったことがあります。
トラック島は、第一次世界大戦から第二次世界大戦で敗戦するまで日本の統治下とされ、太平洋戦争では日本の基地とされた島です。
当時海を渡った日本人たちは日本のような町を作り、たくさんのものを持ち込みました。
がっこう、せんせい、じょせいと、うんどうかい、いっとうしょう、べんとー、びょういん、でんき、でんわ、かっそうろ、たま、はたけ、ぞうり、べんじょ、ちちばんど・・・
それらは今でも外来語として現地のことばに根強く残っています。
当時日本人は学校を作り、日本語の名前をつけさせ、日本語教育を行いました。
私はその教育を受けたおじいちゃんたちの話を聞いてまわりました。
日本人の下で働いた。
戦争が始まると、家も、食糧も日本人に取られた。でも、戦争だから仕方がなかったんだ。
戦争では日本兵と一緒に闘った。
防空壕にも一緒に入れてもらった。
たくさんの家族や友人を失った。
日本兵は人肉を食べたという噂があった。
もらったおまんじゅうが美味しかった。
よくしてくれた。
働き方を教えてくれた。
日本時代は本当によかった。
などなど。
もちろん中には反日感情を持っている人の話もちらほらありましたが、全体的に非常に親日で、日本人にはよくしてもらった、日本時代はよかったという話が多かったのが印象的でした。
島の周りには沈没船が沈んだままでダイビングスポットになっており、また島のあちこちに日本人が作った防空壕や大砲、建物の跡がそのまま残っており、現地の人々はその存在を日常生活の中で当たり前のように受け止めてあるのでした。
つい私たちは、日常のたくさんのささいなことや、事件や事故や、失言で賑わう政治の話ですっかり忘れてしまいます。
でもやはり、薄れさせてはいけないこと、
こどもたちの未来に、人を殺める戦争や争いが、仕方がないとされる時代がこないことを、祈らなければなりません。
デモやストライキが起こりにくい日本、もしそういう話が進められているときにどういうアクションを取ればいいのか、大人しい日本人としては実際何ができるか何をすべきなのか想像できないのですが、戦争は絶対にだめだという、強い想いがなければ、余計に、いつの間にか様々な法案が通っているようにいつしか戦争が始まってしまうのではないかと思ってしまうのです。
少し話はずれますが、学生時代こどもキャンプのスタッフをやっていたとき、必ず歌う歌がありました。
『私の子どもたちへ』という歌です。
今、親となり、こどもたちへできることは何か、を少しずつではありますが考えるようになりました。
こどもたちへ、空や、川や、土や、海や、山を、残して伝えていくには、きっと私自身、もっともっともっと、モラルを持たなければならないと思います。
とにもかくにも。
こどもたちの未来が、平和でありますように。
私の子どもたちへ
作詞、作曲 笠木 透
1 生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
■目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう
■近づいてご覧なさい 辛夷(こぶし)の花があるでしょう
2 生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
■目を閉じてご覧なさい 野原が見えるでしょう
■近づいてご覧なさい 竜胆(りんどう)の花があるでしょう
3 生きている君たちが 生きて走り回る土を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
■目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう
■近づいてご覧なさい 辛夷の花があるでしょう