和歌浦周辺を散策しました。
不老橋

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したものである。
橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。 ウィキより
玉津島神社

昔は山の上に建物があったようです。

この山かな?

こちらは『古事記』『日本書紀』に出てくる海幸彦・山幸彦の神様ゆかりの神社。祭神は塩槌翁(シオツツノオジ)尊。江戸時代の木遺歌に「一に権現、二に玉津島、三に下がり松、四に塩釜よ」と歌われ、昔、塩田の塩を焼く釜からこの名が付けられたという。この神社の近くの小高い丘の上に、赤人のあの有名な「若の浦に潮満ち来れば…」の歌碑が建っています。

小学校への通学路でもあったところ。
和歌浦の市場を通っていきます。
車一台通れるかどうかの細い道
こんなに細かったっけ・・・こんなに近かったっけ・・・
ずいぶん変わったような気もします。
でも時代に取り残されたように昔のままの家も残っています。
日曜日でお休みの市場・・シンとしています。

こちらは紀州東照宮・・・私の通った小学校はこのすぐ横にあります。
いわば裏の神社の感覚ですね。
といっても階段がきついのでそう遊びに行ったりはしませんでしたが。

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祭神 徳川家康公 徳川頼宣公 南海道の総鎮護として紀州藩祖の徳川頼宣公(家康の第十子)元和七年(1621)に創建、徳川頼宣自ら陣頭指揮をとって久能山を模して造営。東国随一の名称として継承されている。 権現造りの社殿は創建当時のものであり、「本殿」「拝殿」「楼門」「回廊」「唐門」「瑞垣」「石の間」の七棟いずれも国指定重要文化財。 明治六年に県社列格。大正六年(1917)に旧県社の「南竜神社」<祭神:徳川頼宣公>を合祀している。 参道をすぎ108段の「侍坂」を登りつめた楼門から振り返ると、和歌浦の海が一望できる。
少し奥に入るとこじんまりとした和歌浦天満宮があります。
こちらはひっそりとして、あまり訪ねる人もいないようです。
派手に有料駐車場を整備している東照宮とは対照的に無料でもほとんど車も止まっていませんでした。
にぎわうのは受験シーズンと書初めのときくらいでしょうか・・・・
入り口にはへんちくりんな人形やオブジェが置いてあり、計画性もなく植えられたような草花、なんとなく住んでいる人の生活臭まで漂って哀愁を誘います・・・私たちに同情される神社って一体・・・
それでも受験祈願の絵馬はたくさん並んでいて、知り合いの名前も見つかりました。
絵馬を眺めているのも結構楽しいものです。
中には○○校高入学祈願というのもありました。彼女はちゃんと高校に入れたのでしょうか・・・つい心配になりました。

紀州東照宮の西方。雑賀山の中腹に鎮座。延喜元年に菅原道真が太宰府に左遷される際に、風波をさけて和歌浦に立ち寄った。
その後、康保年間(964-968)に橘直幹が太宰府からの帰路に当地に立ち寄って道真を追想して社殿を建立したことにはじまるという。
天正十三年の兵火によって焼失するも、慶長十一年(1606)に浅野幸長によって再興。
元和七年に東照宮が建立されると、当社は地主神として崇敬され、当社神主の安田氏が東照宮神主を兼務。
受験シーズンともなると、合格祈願者で賑わう。
急な石段を上り詰めると、楼門(重要文化財)と桃山風の華麗な本殿(重要文化財)がある。
こちらは昔高津子山にあった回転展望台

回転展望台なんてこの時代にしては珍しかったのでは?
階段にいるちっこいのが私です。
なんと1910年には日本初の屋外エレベーターも設置されたとのこと。それを見た夏目漱石が「行人」のなかで「所にも似ず無風流な装置には違いないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた」と書いているそうです。
和歌山歴史物語パンフレットより 日本初の屋外エレベーター
まだ交通機関が不便だったころここが一大観光地だったことがうかがわれます。高速道路の発展により、より遠くに簡単に行けるようになり寂れていきました。1996年、回転展望台は簡素なコンクリート製の無人展望台に建て替えられました。
ここへは新和歌浦ロープウェーで上がりました。3分ほどでした。
開業1960年5月15日
廃止1997年
確か帰りはスライダー式の長い滑り台があった記憶が…

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今はどこにでもあるようなしょぼい見晴台しかないですが、最近こんなのができていました。

この像が眺めている美しい景色は今も健在です。
