神功皇后は、どの海を渡ったのでしょうか。
日本海?それとも瀬戸内海?
 
日本書紀には、次のような記述があります。
 

皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。

【現代語訳】皇后は、角鹿から出発して、渟田門に到着し、船の上で食事をしました。
 
 
この「渟田門(ぬたのと)」、大きく二つの説があります。
 
ひとつは、現在の福井県若狭湾周辺とする日本海側とする説。
もうひとつは、広島県三原市付近の瀬戸内海側とする説です。  
 
 
 
角鹿(敦賀)を発ってすぐなので、若狭湾周辺のこととも考えられます。
神功皇后は、日本海を渡ったのでしょうか。
 
 
 
しかし、実際に各地を歩いてみると、ひとつの違和感が浮かび上がります。
 
それは、伝承の分布です。
 
日本海側ではほとんど見られない一方で、瀬戸内海沿岸には、神功皇后にまつわる伝承が数多く残されています。
 
もし本当に通った道であるなら、
そこに何も残らないということがあるのでしょうか。
 
 
 
本記事では、牛窓や浮鯛の伝承、そして瀬戸内海という海の性質から、
 
この「渟田門」がどこか、
 
神功皇后の航路は、
瀬戸内海か、日本海か――
 
その問いの答えを探ります。

シーカヤックが砂浜と水辺にある

 

【第一章】潮の海 ― 瀬戸内海という航路


神功皇后は、どのように海を進んだのか。
 
その手がかりを求めて、私は瀬戸内海に出ました。
 
一見すると穏やかな内海。
波も静かで、外洋に比べればはるかに航海しやすいように見えます。
 
けれど実際には、この海は決して単純ではありません。
 
瀬戸内海では、およそ六時間ごとに潮の流れが変わるといいます。
同じ場所でも、時間によって海の様子が大きく変わるのです。
 
この話を聞いたのは、岡山の海の上でした。
 
シーカヤックで瀬戸内海を漕ぐ
 
神功皇后たちの航海を少しでも体感したくて、
私はシーカヤックを漕ぐことにしました。
 
二人乗りのカヤックに乗り、ガイドとともに海へ出る。
潮の流れを読みながら、小島から小島へと進んでいきます。
 
その動きは、思っていたよりもずっと滑らかでした。
 
潮に逆らえば進まない。
けれど、流れに乗れば自然と前へ進んでいく。
 
 
 
私は初心者でしたが、ガイドの導きによって、
無理なく島から島へと渡ることができました。
 
この海では、力よりも「流れを読むこと」が重要なのだと実感します。
 
 
 
古代の人々は、こんな小さな手漕ぎの舟で近畿から九州まで進んだわけではないでしょう。
もう少し、大きな船。
 
それならば、潮を読み、時間をかければ――
瀬戸内海は確かに「渡ることのできる海」なのです。
 
  
 

【第二章】牛窓 ― 潮待ちの港と死の伝承

 
岡山県瀬戸内市牛窓。
 
ここはかつて、「潮待ちの港」として栄えた場所でした。
潮の向きが変わるのを待ち、船はここで足を止めます。
瀬戸内海を進むうえで、避けては通れない拠点のひとつです。
 
私がシーカヤックを漕いだのも、この牛窓の海でした。
 
潮の流れに合わせて進むと、驚くほど自然に、小島から小島へと渡っていくことができます。
 
近畿から九州までを一気に進むのではなく、
潮を見ながら、区切りごとに進む。
 
牛窓のような場所は、そうした航海の節目だったのです。
 
青いシーカヤックと遠くの島々

 

そしてこの地には、気になる伝承が残されています。
 
仲哀天皇と神功皇后がこの地を訪れ、
そして、仲哀天皇が命を落としたというものです。
 
伝承によれば、熊襲に加担した新羅が、塵輪鬼という怪物を放ち、
天皇はこれを矢で討つものの、自らも傷を負い、やがて崩御したといいます。
 
この話は『古事記』『日本書紀』には見えません。
いわば、正史には残らなかった物語です。
 
 
 
それでも、この場所にこうした伝承が残っているという事実は重い。
 
私はこの話を、小説の中で「あり得たかもしれない出来事」として描きました。
 
 

 

牛窓神社

岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2147

 

【第三章】浮鯛 ― 海が導いた道


ここで改めて、日本書紀の記述を見てみましょう。


皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。時、海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚卽醉而浮之。

【現代語訳】皇后は、角鹿から出発して、渟田門に到着し、船の上で食事をしました。
その時、多くの鯛(鯽魚)が船の傍に集まりました。皇后は酒を鯛に注ぎました。鯛はすぐに酔って浮かびました。
 
一見すると神話的な出来事ですが、
 この現象は”浮き現象”と呼ばれ、現在では科学的に説明できるものだといいます。
 
魚が、産卵のために外海から瀬戸内に入ってきた際、海流の関係で速い潮の流れにもまれ、体内のうきぶくろの調節が間に合わなくなって浮き上がってしまうのだそうです。

かつては、兵庫県播磨市の鹿ノ瀬や、広島県三原市の能地堆などでよく見られたといいます。


さらに、能地は、かつで"家船”と呼ばれる、漁業と行商を生業としながら水上生活をしていた人々の出身地として知られます。

彼らは各地の近海で漁をし、陸に上がって行商をして生活必需品を得ていました。
そのような漂泊の民が通行手形のように持っていたのが”浮鯛抄”と呼ばれる書状です。
そこには、神功皇后にまつわる伝承が書かれています。
 
神功皇后が酒を注いで浮き上がった鯛を、地元の海士が獲り、それを皇后に献上しました。
喜んだ皇后は、「この浦の海士に永く日本の漁場を許し給う。それ故に、この地の海士はいずれの国で漁をすれど障りなく、また運上を出すことなし」というお墨付きを授けます。

それが、”浮鯛抄”です。

またその時、皇后は上陸してこの地をご覧になって、五穀豊穣なる土地と認めて”能地”の名を与えます。
さらに海に幣を流し、その幣が打ち上げられた場所を”浮幣”と称して、そこに「浮幣社」という祠を建てました。

それが、現在、能地にある浮鯛神社です。

 
瀬戸内海の船と波止場

 

【終章】どの海を渡ったのか

 
牛窓神社に残る伝承、
浮鯛神社に語られる物語。
 
それらは決して、無関係に散らばっているわけではありません。
 

 
瀬戸内海に、これらの伝承が残されているのは、
 
この海が単なる想像の舞台ではなく、
実際に神功皇后が通った「道」だったからではないでしょうか。
 
ヨットとボート、集落と山並み