神功皇后:海を越える巫女王

第14話|豊浦の如意珠、凪の約束

 
【あらすじ】

豊浦津に到着した帯姫は、天皇とすぐには会えぬまま、不吉な予感に心を揺らしていた。
海に潜って得た不思議な珠は、「今すぐではない」というわずかな猶予だけを彼女に伝える。
やがて再会を果たす二人――穏やかなひとときの裏で、避けられぬ運命が静かに近づいていた。

――――――

【本文】

足仲彦天皇より、ひと月あまり遅れた七月五日。息長帯姫は、ようやく豊浦津へと至りました。

しかし、天皇はすでにこの港を発ち、さらに先へと進まれているとのこと。すぐに合流することは叶わず、一行はやむなく豊浦津に逗留することとなったのです。

潮の香り満ちる夕刻、帯姫は静かな浜辺に立っていました。

胸の内には、二つの思いが渦巻いています。

――一刻も早く、お会いしたい。

けれど同時に、

――お会いすれば、また“あれ”を見てしまうのではないか。

その不安の方が、今はなお強く心を占めていました。

「でも、先日のことは回避できたではありませんか」

隣より、穏やかな声がかけられます。豊姫です。

「徳勒津宮にてご覧になった、吉備の浦のこと……あれはもう、起こらなかったのでしょう?」

「それは……そうなのですが……」

帯姫は、言葉を濁しました。確かにあのときの幻視は現実とはなりませんでした。けれど、それが本当に“終わった”のか、それとも“別の形で訪れる”のか――その確信を持つことができずにいたのです。

「それほど恐ろしいのであれば」

今度は長媛が、わずかにいたずらめいた眼差しを向けて言いました。

「お会いになる前に、占ってみてはいかがですか」

「占う……?」

「ええ。誓約にございます。海に潜り、珠を得られれば吉。しかも、美しき珠であれば――一生安泰、という趣向にて」

帯姫は一瞬ためらいました。けれど、ただ恐れているばかりでは、前へは進めません。

「……分かりました。やってみましょう」

その決意は、静かに固まっていきました。

帯姫は衣を整え、ゆるやかに海へと足を踏み入れます。水は思いのほか冷たく、それでいて不思議と心を澄ませるものでした。

深く、さらに深く。

光の届くぎりぎりのところにて、帯姫は海底を見渡します。

真珠を含む貝を探す――はずでした。けれど、視界の片隅に、異なる光が揺らぎました。

それは、砂の中に半ば埋もれた、小さな玉。

帯姫は手を伸ばし、それを拾い上げます。

水面へと戻り、息を整えてから、手の内を見つめました。

「……これは……」

それは真珠ではありませんでした。

透き通るような輝きを宿しながら、どこか整いすぎている。自然に生まれたものとは思えぬ、滑らかな球体。

――まるで、人の手によって磨かれたかのように見えました。

「これで……よいのでしょうか……」

帯姫は、戸惑いを隠せません。

そのとき、葉山媛が一歩進み出て、帯姫の手に重ねるようにして玉を包み、静かに微笑みました。

「それでよろしいのです」

「え……?」

「それはきっと、平和を願われるあなた様の御心に応えた珠にございます。海が、あなた様に託したのでございましょう」

その言葉は、不思議と胸にすっと落ちました。

「……そうですね」

帯姫は、小さく頷きます。

不安が消えたわけではありません。けれど、それを否むよりも、受け入れる方が、今は正しいように思えたのです。

やがて四人は顔を見合わせ、ふっと笑みを交わしました。

そのとき――

「姫様方、そろそろお戻りくだされ」

襲津彦の声が、少し離れたところより届きます。

「屋敷の支度が整いましたゆえ」

「分かりました。すぐ参ります」

豊姫が応じ、三人はくるりと背を向けて歩き出しました。

帯姫もまた、それに続こうといたしました――が、その一瞬。

手の中の珠が、かすかに脈打つように感じられたのです。

言葉ではない、けれど確かに伝わる感覚。

――まだ、時はある。

帯姫は息をのみました。

それがどれほどの長さなのかは分かりません。
けれど、今すぐではない。

限られた時が、静かに差し出されている。

(……まだ、大丈夫)

胸の奥に、わずかな安堵が広がりました。

「姉上?」

振り返った豊姫の声に、帯姫ははっと我に返ります。

「ええ、すぐ参ります」

そう答え、帯姫は珠をそっと握りしめました。

その光は、夕闇の中にあっても、やわらかく確かに輝いています。

   *

翌朝。

海は穏やかに凪ぎ、まるで何事もなかったかのように静まり返っていました。

帯姫は屋敷の庭先に立ち、遠くの道を見つめています。

――本日こそ、お会いできる。

そう聞いてはおりましたが、胸の奥は不思議なほど落ち着かず、わずかに指先の冷えを感じていました。

やがて、従者の一人が駆け寄ってきます。

「大王がお見えになります」

その一言に、胸が大きく打ちました。

帯姫は思わず姿勢を正し、深く息を整えます。

ほどなくして、数名の家臣を伴い、足仲彦天皇が庭へと入ってきました。

そのお姿を目にした瞬間――帯姫の胸にあった不安は、ふっとほどけていきます。

言葉が、すぐには出てきません。

天皇もまた、足を止め、帯姫を見つめます。

ほんのわずかな沈黙。

けれどそれは気まずさではなく、どこかくすぐったく、照れを含んだものでした。

「……無事であったか」

先に口を開かれたのは、天皇でした。

「はい。大王も、ご息災にて」

帯姫はようやく言葉を返します。

互いに、ほんの少しだけ微笑みました。

それだけで、長く離れていた時が、静かに埋まっていくようでした。

「道中、難儀はなかったか」

「皆に助けられましたゆえ、つつがなく参ることができました」

「そうか……それは良かった」

会話は短く、どこかぎこちないながらも、不思議と温もりに満ちています。

あの不吉な気配も、胸を締めつけるような影も、何一つ感じられません。

ただ、穏やかな空気だけが、そこにありました。

(……まだ、時はある)

昨夜の感覚が、ふと胸をよぎります。

帯姫は、そっと息をつきました。

「これよりは、同じところにて過ごせよう」

天皇が、やや照れたように言われます。

「はい……」

帯姫もまた、わずかに視線を伏せながら頷きました。

その頬には、ほのかな紅が差しております。

再び顔を上げたとき、二人の視線が重なりました。

今度は先ほどよりも自然に、柔らかな笑みがこぼれます。

ようやく――同じ時を、同じ場所にて過ごすことができる。

そのささやかな喜びが、言葉にせずとも、確かにそこにありました。

帯姫の手の中にある珠は、静かに光を宿しております。

まるで、このひとときが限られたものであることを、
そっと知っているかのように。

――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第15話「神夏磯媛の裔」では

神夏磯媛の血を継ぐ兄妹と対面した足仲彦天皇は、豊前の地に受け継がれる力と野心の気配に触れます。
 
5月12日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。