山鹿貝塚
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1014
※出土物の展示は芦屋歴史の里。
歷史的環境
現在、洞海湾および遠賀川流域には、 縄文時代の貝塚が多く発見されて います。これらの貝塚は、いわゆる 「縄文海進」により、現在の海岸線よりも陸地側に形成されています。
ピーク時には、遠賀地域付近で現在よりも3.5mも海面が高かったと推定されており、洞海湾沿岸及び 遠賀川流域の平野部はほぼ水中に没していました。それが堤となり、 狭くなった湾口から流入した海水が芦屋町から直方市までの低い堆積盆地に潟湖を形成するようになりました。これらは、古洞海湾、古遠賀湾とよばれています。
この河口付近に形成された代表的な貝塚が山鹿貝塚です。
山鹿貝塚の概要
山鹿貝塚は砂丘上に位置する縄文時代の貝塚です。昭和28(1953) 年に竹中岩夫氏により発見されました。
昭和30(1955)年には1号人骨を発見。昭和37(1962)年に 第1次発掘調査が行われました。 昭和38(1963)年に高校生が貝輪のはまった人骨前腕部を発見しました。この人骨は直ちに埋め戻され、昭和40(1965)年に再発掘(第2次調査)が行われ、2・3. 4号人骨が発掘されました。
その成果は、翌年日本人類学会で発表され、学会の注目を浴びました。
昭和43(1968)年に第3次調査 および補足調査(第4次調査)。 平成13(2001)年に第5次調査が行われました。2・3・4号人骨 および出土資料の大部分は芦屋町歴史民俗資料館(芦屋歴史の里) で保存しています。
特殊な出土遺物
山鹿貝塚で縄文人が活動していたのは、縄文時代早期から晩期にかけての約6000年間だったことが土器の分析で分かっています。
これまでに出土した人骨は、120体以上。葬られた時期はいずれも約3500年前と推定されます。 性別が分かる出土人骨は、男性 8人、女性7人、乳幼児3人の構成でした。彼らがアクセサリーを持つ頻度は、他遺跡の縄文人と比べて極めて高いものでした。
(私達は特別に本物の骨等を見せて貰ったけれど、そちらはSNS等にアップするのはNGなので、展示されているレプリカのみここに上げる。)
特に注目すべきは、サメ歯のイヤリング2個、緑色大珠1個、貝(タマキガイ)の腕輪19個を 着け、鹿角2本を添えて葬られた2号人骨の女性です。発掘の報告者は、大珠をもった女性はシャーマン (占い師)兼女族長であったとしています。他の女性も貝の腕、 耳飾り、足飾りなどの何らかの 装飾品で身を飾っていました。
装飾と縄文人
山鹿貝塚では、2号人骨を筆頭に装飾品を持つ人骨が多数出士しました。
特に、見つかった縄文人の女性の人骨全てに貝輪が見られ、耳飾り・足飾りをつけていた女性も多く、女性の装飾品の多さが際立っています。それに比べて男性は、耳飾りをつけていた2人を除くと装飾品をつけていた人はいませんでした。
山鹿貝塚の女性たちは、特に大切にされていたのかもしれません。
ただ、不思議な残り方をしている人骨で、もろく残りにくい新生児の骨がちゃんと残っているにも関わらず、残っているべき大人の肋骨がないという。
また、大珠は1番大切な石として副葬されたことが考えられるのだけれども、多くは翡翠であるところがここのは翡翠に似た翡翠ではない石。
イヤリングに使われたサメ歯は、わざわざ二つの歯を組み合わせて作られている。
鹿の角は、窪みはあるが穴がない。
歯が磨滅している理由は、砂を噛む食生活だったからだろうとされている。
「山鹿貝塚」で検索したら、クロスロードふくおかの「山鹿貝塚」のイラストが出て来たので引用。
2号人骨の1人の女性は骨的にとても美人らしく、お金があれば顔を復元してみたいって![]()
縄文土器(特に山鹿貝塚)
縄文土器は各地、各年代で様々な特徴をもっています。山鹿貝塚で出土する縄文土器も、各時代によってそれぞれ違う様相をみせています。
早期には斜格子文土器、前期には轟式系土器・曾畑式系土器、中期には、わずかに九州文化圏の阿高式系土器がみられるだけで、岡山県を中心とした瀬戸内海沿岸の船元式土器・里木式土器の強い影響を受けた土器が主流を占めます。後期になっても瀬戸内海沿岸の中津式・福田K式土器などが中期に引き続いて影響を与えますが、後期中葉には鐘崎式土器、後期中葉以降は山鹿式土器が主流をなします。
特筆すべきは、瀬戸内系土器の影響を受ける土器が出土することで、これは瀬戸内地方と頻繁に交流を行っていたことを示しています。














