中津屋神社(なかつやじんじゃ)/砥上神社(とかみじんじゃ)

福岡県朝倉郡筑前町砥上980-1

 

 

伝承によれば、神功皇后が新羅出兵の兵士をここに集め「中やど也」と語り、また、兵器を研がせたのでこの地を「砥上」というようになったという。

 

 

旧中津屋郷の中心地に鎮座する砥上(中津屋)神社の境内には、イチイガシ(夜須町指定文化財)など巨木がうっそうと生い茂り、背後の砥上岳(496.5メートル)を含めて神功皇后ゆかりの地にふさわしい。

 

 

山麓には、この神社を中心として古墳時代後期(西暦500~600年)の古墳が数多く群集し、神社のあたりが古来より地域の中枢であったことを物語るものであろう。
標高150メートルの中腹には装飾古墳としても名高い「観音塚古墳」(夜須町指定文化財)があり、武宮のある山頂に至る道すじには「ひづめ石」、「みそぎのはる」、「さやん神」、「かぶと石」など道行く人の疲れを忘れさせてくれる。

 

 

時間があるときに登ってみたいな、砥上岳。

 


また、町名の「やす」は、神功皇后がまつろわぬ在地の豪族・羽白熊鷲を滅ぼして「わが心すなわち安し(日本書紀)」と語ったことに由来する。

 

ここまでは、砥上岳登山ルートの案内板に書かれていた情報。

 

 

大体同じ内容にはなるけれど、石碑に書いてあった内容を以下に。

 

 

中津屋神社(朝倉郡夜須町大字砥上字宮の上)

御祭神 

神功皇后(息長足姫命)
八幡大神(応神天皇)
住吉大神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)



由緒

当社は夜須郡の祖社にして、宮所は古く社伝に、神功皇后新羅を征討せんとして、先ず諸国の軍衆を此の地に召集し給い、中宿(屯営)としたことにより中つ屋と号す。此所に集まれる軍衆に命じ、兵器を砥ぎ研かせ給うにより、砥上の地名を残せり。

征討進発に当り軍議を催し、武神なる武甕槌神を勧請して皇軍の武運を祈り、三韓平定の功を奏し給うと伝う。現在、砥上嶽山上に武宮と在るは是なり。

 

 

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武甕槌(たけみかづち)は砥上嶽山上にある武宮に祀られているのね。

 

武甕槌は、剣の先にあぐらをかいて大国主に国を譲らせた神様よ。
その後、初代神武天皇も、武甕槌の剣に助けられながら東征を成功させたわ。

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すごい剣の神様だ。

 


天文十二年(一五四三年)大内田勘解由重国(当社・初代宮司)初めて祭祀をなす。是より、秋月氏は神殿の造営を成し、祭祀料二町余、筑紫氏もまた一町二反の神領を寄進し、崇敬の誠を捧ぐ。後、天正二年(一五七四年)萩尾遠江守治種により社殿の再興あり。貞享四年(一六八七年)夜須郷の産子により修理さる。
当社は、代々夜須郷の氏子はもとより武人の尊崇特に厚く、歴代福岡藩主及び社寺奉行より御祈祷報賽並びに代参のありたることを証す達文多数残れり。
尚、石鳥居の額は花山院内府貞誠公の筆なり。明治五年十一月三日、郷社に列せられ現在に至る。

 

 
ちゃんと御汐井があるのを見ると、安曇族系統かな、って思っちゃう。

 

 

イチイガシ

 

イチイガシは、ブナ科コナラ属で関東以西の太平洋側や四国・九州に分布し、その生育地は肥沃な平地を好みます。
また、その実は渋みが少なく食べることもでき、縄文時代には食用とされていました。
材としても固く農耕具や建築材に適しており、この南にある惣利遺跡から出土した建築材等にも使用されていました。
指定をしているもんは、中津屋神社の境内にある8本中、大きな3本について行い、最も大きいもので樹高27m、胸高周囲3.8mです。
令和六年九月 筑前町教育委員会

 

 

縄文時代から人に活用されていた木なんだなぁ。

 

 

この先、砥上岳。

 

 

「砥上嶽武宮遥拝所」とある。