北摂の地に紫雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。

 

第十四代仲哀天皇の先后 大中姫、その長子麛坂皇子、弟忍熊皇子の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わっております。

 

 

中山寺

兵庫県宝塚市中山寺2-11-1

 

 

仲哀天皇の先后 大中姫と、麛坂皇子・忍熊皇子の追善供養のために建てられたと伝わるお寺!

ということで来てみたら、思いのほか立派なお寺でびっくりしたガーン

 

 
エスカレーターがあるよ!
近代的!!

 

 

奥の方には綺麗な塔も見えるし、

 

 
本堂の前にもエスカレーター!すごい!お金かかってる!

 

 
何と言っても聖徳太子の創建だし、お寺について書こうと思えば色々あるのだけれど、一旦置いといて。
今回は大中姫に絞ってお話ししましょう。

 

 

県指定文化財 中山寺古墳

昭和三十五年三月三十一日指定

 

本墳は南面する両袖式の横穴式石室で、石棺を安置する

玄室は、長さ五・五m、中二・四m。高さ三mあり、羨道は長さ八・五m、巾約一・二m、高さ約二mで巨石をもって造られている。

石棺は、蓋石に縄掛突起をもち、棺身が刳抜式の家形石棺である。巾ー・六、長さー・八m、高さー・二mで、この形式の石棺のなかでは代表的なものといえる。

本墳の建造年代は、六世紀後半頃と考えられ、古墳時代後期に、この西摂地方に勢力をもっていた豪族の墳墓と考えられる。

西摂平野の縁辺に数多い古墳中、後期古墳の著例として貴重な文化遺産である。

昭和四十九年十月

 

 

建造年代が六世紀後半頃というのが正しければ、大中姫というよりはむしろ聖徳太子の時代のものということになるのだけれど、お寺には大仲姫の墳墓

と伝わっているわ。

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じゃあ、聖徳太子が大中姫の為に新しく古墳つくったんじゃない?

 

 

中に入れるし、近くで石棺も見れちゃう。

 

 
石棺は資料館で展示してあるパターンもあるけども、これは現地で見れるの嬉しい照れ
 

 

石の櫃(からと) 兵庫県指定文化財

中山寺古墳は、寺伝によれば第十四代仲哀天皇の后 大仲姫の墳墓とされ、別名「石の櫃」とも称されます。

古墳洞内の大きさは、横幅二・五〇メートル、奥行き三・六〇メートル、高さ三・二〇メートルです。石窟内には、石棺が安置されています。まさしく上代の陵墓制であることは明らかで、貴重な史跡といえます。

 

ちなみに「櫃」は「ひつ」とも読むわ。大型の箱のことよ。

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石の「棺(ひつぎ」じゃないんだ。

 

多分、「遺体を収めるための箱」というよりは「大事なものを入れておく箱」と認識されていたんでしょうね。

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石棺の中に、閻魔様から預かった御宝印と起請文を納めていたよ!

 

まあ、死後の世界の話なんだし、棺の中というのは納めておくのに相応しい場所だったのかもしれない。

 

 

今よりおよそ千四百年前、仲哀天皇の前の皇后大仲姫は、北摂地方の豪族大江氏の出身で、香坂・忍熊の二人の皇子をのこして亡くなり、父君・大江王の住まわれた難波江の近くの大柴谷に葬られました。

やがて仲哀天皇は神功皇后を後の后に迎えられました。


古事記でも日本書紀でも、大江王(彦人大兄)は景行天皇の息子ということになっているわ。

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大江王の母方が北摂地方の豪族ってことかな?
古事記では、大江王の母親(迦具漏比売命)が景行天皇の曾孫というおかしなことになっているよね。

日本書紀には母親の記述がなかったから、まあ、景行天皇の曾孫ってのは間違いだと思ってたら良いんだろう。


とりあえず、大中姫の系図を思い浮かべる際に「北摂地方の豪族」という情報を付け足しておく。


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古事記や日本書紀には大中姫の亡くなった時期が書かれていないけど、ここでは、仲哀天皇と神功皇后が結婚する前に大中姫が亡くなったと伝わっているね。


古事記ベースだと大中姫の血統が良いから、血統的には応神天皇より麛坂・忍熊の方が時期天皇に相応しい感じだったけど、「北摂地方の豪族」の娘というポジションで、かつ早くに亡くなったとなれば、結構微妙なところだったのかな。

…ただやっぱり、応神天皇が幼いことを理由に、麛坂・忍熊いずれかが即位する道もあったろうし、仲哀天皇の弟達の誰かが即位する道もあったわけだけど。


それはさておき、麛坂・忍熊は大中姫の関係で北摂地方(大阪府北部と兵庫県南東部内陸の阪神北地域)を拠点にしていたんだろうな。

とりあえず、一旦そう考えておくことにする。