懐良親王(かねよししんのう)御陵

熊本県八代市妙見町

 

懐良親王は後醍醐天皇の第八皇子。

 

南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いたわ。

 

外交上は、明に対して日本国王と名乗ったそうよ。

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まって!
色々分からないけど、まず「南朝」って何?💦

 

 

南朝と北朝って?

 

鎌倉幕府滅亡後、二つの朝廷が正統を争いました。

吉野で後醍醐天皇が開いた「南朝」と、 京都で足利尊氏が光明天皇を擁立した「北朝」です。

九州では肥後国の菊池氏を中心とする 南朝方が優勢ななか、九州の各地で激戦が繰り広げられました。

 

 

(悟真寺にあった、「南朝の都 歴史巡り」パンブレット by南朝の里観光開発委員会 より)

 

 

懐良親王は、征西将軍として九州の南朝勢をまとめあげることを目的に派遣された、後醍醐天皇の皇子です。
7歳のころに都を出発し、五条頼元などわずか12名の従者とともに瀬戸内海経由で九州を目指しました。
(中略)
晩年の懐良親王は、天然の要害である八女の星野に移り住み、大円寺で動乱の犠牲者の菩提を弔いながら余生を送り、1383(弘和3)年、55歳でその生涯を閉じました。
懐良親王の墓所については複数の説があり、八代市の懐良親王御陵(宮内庁認定)ほか、八女市大円寺の懐良親王御墓所、久留米市千光寺の懐良親王御陵が伝わっています。

 

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二つの朝廷がある不安定な時代。

7歳で都から九州に送り出されるなんて大変💦

しかも従者少ないし、可哀そうな懐良親王😢

天皇の息子って、もっと大事大事に保護されてても良さそうなものなのに、そんなんじゃないのね……。

 

父親である景行天皇に疎まれて、少ない従者で熊襲征伐に向かわされたという、古事記ベースのヤマトタケルを思わせる。

 

 
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ここが、複数説あるうちの1つの墓所なのね。

 

側に「護神寺廃寺跡」の文字あり。

 

柱らしきもの発見。

 

階段を上っていくと、漢字違いの「ごしん寺」があったのだけど、それについては次回!

 

 

 

南朝は負けて、北朝が正統ということになるのだけれど、外交上はなかなかそうは行かなかったらしいわ。

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というと?

 

明国の使者が九州にやって来た時、大変栄えていたものだからそこが都だと勘違いしたの。

その流れで懐良親王が日本の国王として明と朝貢貿易を結ぶことに。

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明にとっては、懐良親王が日本の国王ってことになったのね。

 

そう。だから、南北朝が統一された後もしばらく、明に信じて貰えるまでは懐良親王の代理として貿易をせざるを得なかったということよ。

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(笑)