西寒田神社
大分県大分市寒田1644
旧国幣中社、豊後一ノ宮として広く知られる西寒多神社の由緒は、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の山々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。
その後、人々はそれを敬ってその地に端垣を結び、聖地として崇めるようになり、やがて応神天皇の御代にこの地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。
勅を奉じた武内宿禰は応神九年、豊後国に下向して宮殿の建立に当たった。
さらに7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。
貞観10年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で式内大社とされた。
以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。
応永15年(1408)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した。
シュッとした狛犬たちが良い感じ。
御朱印は、西寒田神社と本宮社(奥宮)のを貰った。
その昔、霊山には恐しい鬼が住んでいました。鬼たちは麓に降りてきては村人に悪さばかりしていました。
ある時、天照大御神を祀る巫女の親子が本宮山にやって来て、毎日お祭りをしていました。霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音でした。
鬼は親子を取って食おうとしましたが、母親が霊山から本宮山まで、一晩で橋をかけられたら食べられましょうと無理難題の約束をさせました。
ところが鬼たちは、一晩で橋を完成させかけたため、あわてた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをしました。すると鬼たちは朝が来たと思い残念がって歯で石を噛み投げました。
そして鬼たちは霊山から居なくなってしまいました。この歯型石は、その時の石とされています。
市指定有形文化財の神庫。
校木を井桁に組み合わせた井篭組みという形式の、高床式の建物。
(井篭組みというのは、校倉造りの一種?別称?)
側を流れる川。













