初時雨の忘れもの
山姥が今年もそろりと 谷渡りを始めた初時雨の朝
銀次は 赤ん坊の泣き声で
目がさめた
「あんき屋」で 焼酎しこたま飲んで
破れ寺の門框を枕に 寝ちまったらしい
声の主は 古びた金襴の布にくるまれた捨童子
小さな守り刀が一振り
鞘に紋ひとつ 丸に狐が二匹巴形に蹲る
銀次はよろめきつ 赤ん坊を抱いて帰る
見るなり瞳露とうろは 奪うように赤ん坊を抱く
瞳よりも大きな涙がひとつ粒 コロリ転がる
あたしたちのだよ
この子
狐童
赤ん坊を 奏狐そうこと名付けた
三度めの春を迎えると
銀次は庭に長太い綱を置き その上を奏狐を裸足で歩かせた
いいか
踵はそっとつけ 足の親指と隣の指で
綱をギュッと掴む感じでな 歩け
足元を見ちゃなんねぇぞ 真っすぐ前を見ろ
足で触って 綱のヤツを掴め
練習のときの銀次は 容赦がない
が
いつもは寡黙で優しい
瞳露も無口だが 抱き締め寄せては
ゆらゆら笑う
水音のする茅葺小屋
小屋の土間に丸石を並べ 囲炉裏となし
壁際の流しの甕には 裏山の筧の清水が絶え間なく
さらさらさら 音たてて それが小屋の時計
奥の板の間に藁敷きつめて
奏狐を中に 左に瞳露 右が銀次
川の形に…
銀次はかすかに酢の匂い 瞳露は天花粉の匂い
そのふたつの匂いに 包まれて
奏狐は眠る
七歳の春
銀次は地面に延びた綱の一方を 二分咲きの桜の幹に結び
片方を三間離れた大杉に絡め 奏狐の背丈に合わせキリリ締め
五尺ほどの細竹棒を握らせ
歩いてみろや
なぁに 庭の上に伸びた綱と思えば
いいってことよ
奏狐は
少し緊張したが 綱に立つと竹棒を水平に 拝むように構え
ゆらり ゆらり ゆらり 足運びの確かさは
子どもながら揺るぎがない
桜に辿り着くと 花枝を高々と銀次に振って笑った
年毎に綱の丈は高くなり 奏狐の背丈も 技も 扇のように
大きく開いた
十四の春の初舞台
青赤黄白黒の五色を 被りの服に仕立てて 腰に金の帯
キリリ締めて 背に回し祝い水引に跳ね上げて
いざ隣町の布袋市へ…
奏狐の初舞台である
熟練の銀次 七分咲きの奏狐 ふたりの綱遊芸の掛け合い
瞳露の踊りつつ叩く 腰鼓と鉦に導かれて
ひとびとの熱気が
さざ波の輪となって 寄せてはひき
また寄せてくる
奈落の花
十六歳の秋の興行奏狐は絶好調 まさに錦秋の華と見えた
だが銀次は なぜか胸が騒ぐ
時分の花ゆえの
嵐の予感
瞳露の腰鼓の響きの合間に 奏狐は 凛と響く鈴を聴いた
銀次の戒めを忘れ 不覚にも音の主を追ぅて
振り返った
群衆の中 笠のうちに 哀し気な眼の娘を認めた
途端
足は空くうを踏み
奈落に落ちた
ゆっくりと ゆっくりと
背中から抜け落ちる 翼の羽を
花と散らしながら
堕ちた
「金の雨と月」=板絵油彩/850×570粍
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夢か
いや そうではないらしい
奏狐は粗末な木の寝台に寝かされていて
白髭の老医者が腕を組みながら
右脚が割れて おる
パーツを拾い集め 三晩かけてボンドで繋いだがのう
なぜかパーツひとつ足らぬ まぁ これで上吉とせい
辛抱じゃぞ
老医者に布袋市のことを 尋ねてみる
あぁ それはもう10年ほども前のことや
あそこは今 噴水広場と言うて
寅泰とかいう 若い一座がえらい評判らしい
虚は実を超える
奏狐の欠けた右足のパーツの傷跡には 狐が蹲っている
あぁ そういうことか
守り刀の狐紋の相方こそが 鈴振る娘だ
そういう縁だ
な
そこに想いが 辿り着いた
とき
凛と響く 鈴の音とともに
銀次の酢の匂い 瞳露の天花粉の匂い
水音 藁の匂い すべてが やはらかに奏狐を
包みこんだ
●
系図などという怪しげな歴史と無縁な
流転の者たちの想いは
川の流れに似て 決して途絶えることはない
奏狐は
右脚を引きずり 歩きながら
ときおり 自ずと口ずさむ
この唄が好きだ
なぜだろうか
おすぎ 誰の子
法師の子
法師 誰の子
おすぎの子
●大津波で島民が壊滅 奇跡的に生き残った父と娘
ふたりは夫婦となり子孫を得た
おすぎ=スギナ 法師=ツクシ



