(111)明治の豪傑“いろは”木村荘平 | 江戸老人のブログ

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(111)明治の豪傑“いろは”木村荘平

 木村荘八(1893~1958)という画家をご存知だろうか。人気画家で、小説家永井荷風 が新聞小説『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』を連載したとき、挿絵を担当し好評だった。また、両国広小路にあった実家の牛鍋屋“第八いろは”の帳場を描いた油彩『牛肉屋帳場』がよく知られる。
 
 この父親について書く。名は木村荘平といい、天保11年(1840)山城国、現在の京都に生まれた。学業は全く駄目、15歳で力士を志し家出するも挫折、勘当されそうになる。次に鳥羽で青物屋(八百屋)を営み成功、この後、青物商23軒の組合を作り牛耳った。こういうことに長けていたものと見える。茶輸出ブームに乗り、大もうけをした。実家は皇室御料地を耕作していたという。1868年(慶応4年)に鳥羽伏見の戦いが起きる。このとき、どうコネを付けたものか、木村荘平は、薩摩藩の御用係を務めていた。相当な品物を納めたが、薩摩藩から支払いがなく倒産した。もっとも薩摩藩上層部に人脈ができ、将来が開けた。
 
 明治8年(1878)荘平は、警視庁大警視、川路利良(かわじとしなが)に呼ばれ東京に出る。そこで、川路から屠蓄場監理を依頼される。川路としても散々物資を納めさせた商人を倒産させるなど、後味が悪かったのだろう。荘平は引き受け、三田にあった四国町の「動物育種場」の払い下げを申し出て許可され、ここに【興農競馬会社】を起こす。
 
 単に屠蓄場の管理だけを考える荘平ではない。牛鍋は競争が厳しく、その次を狙ったのか、羊肉料理を始めたが、評判が悪い。すぐに流行の【牛鍋屋】に切り替える。そのあたりの判断は速い。
 その頃、牛鍋は文明開化の象徴、東京に広がった牛鍋には①「上等」(焼き鍋・すき焼き)と ②「並等」があった。「上等」は鉄鍋に牛脂をおき、その上で上肉を焼き、タレをつけて食べる。これが「焼き鍋」とか「すき焼き」と呼ばれた。焼く調理だ。「並等」は、鍋の中に並肉とネギ(五分の長さに切ったのでゴブ と呼ばれた)を一緒に煮込む。これが牛鍋とか並鍋と呼ばれ煮る調理だ。明治7年に上等が5銭、並等が3.5銭。上と並で、「焼く」と「煮る」とに分かれた。これが後の“すき焼き”に混乱を起こすのだが、別の機会に譲る。
 このころ肉はサイコロに切り、味噌仕立て、焼く場合は「どびん」から割り下をいれ、焦げ付きを防いだ。
 筆者はいった事がないが、横浜の「太田縄のれん」で現在も当時の味が楽しめるとのこと。「牛鍋食わぬは開けぬ奴」などと、仮名書魯分(かながき・ろぶん)が『暗愚楽鍋(あぐらなべ)』に書き、また福沢諭吉の『肉食之説』などもあり、前述のごとく牛鍋が文明開化そのものだった。
 
                            1932年《牛肉店帳場》 木村荘八

    数え切れぬほどの牛鍋屋に、そのままでは太刀打ちできない。荘平は、価格破壊で殴り込みをかける。すべての屠蓄場を押えていたから、肉質と価格では負けない。いい肉を安価で提供した。あっという間に人気となりチェーンストア20店舗を完成した。本店で仕入れ出納も統括する。
 

                            
まず宣伝が違った。もとは相撲取りになろうという荘平、身長が170センチメートル、たいしたことがないようだが、当時としては非常に大きい。体重が24貫目というから現在の90キロ。明治初年では馬鹿デカイ。大男が20店舗をすべて回る。もちろん目立つための演出だろう。人力車を使ったが、普通の車夫の前にもう一人、車の後ろを押すのがもう一人で3人引き。掛け声を「イロハ!イロハ!」と大声で走ったという。この人力車は真っ赤に塗ってあったともいわれ、とにかく目立つ。自ら歩く広告塔となった。


 また、店は「目標48店舗!」との意味で、【いろは】となづけ、外観も普通では駄目、看板は右から左へ赤ペンキで「いろは牛鳥肉店」と書き、20店舗すべてを番号で呼び、二階のガラス窓は市松模様の要領で、赤、黄、紺、緑、白の色ガラスをはめ込み全店統一、二階を飲食に、一階を帳場とテイクアウト専門とした。また毎日「コンニャク版」による初歩的印刷物を全店配布した。20店舗の支配人はすべて荘平の権妻(ごんさい)つまり妾だった。今と違い、当時は問題にされない。(一応、明治6年に権妻廃止令は出ている)。むしろ、自分の体躯と相まって、牛肉を食べるとこれほど頑健、との宣伝になったという。荘平はすべて武家出身の女性を選ぶ。読み書きソロバンと品格を重んじたからというが、子供の頃の学業コンプレックス だろう。女性に両親がいる場合、母親を女中頭とし、父親は番頭として雇った。
 
 その他火葬場を受任経営、研究を重ね葬儀場の近代化に尽くした。世界の火葬率は日本が世界一で率99、3%。また日本麦酒(恵比寿ビール)ほかに日本精糖を興した。「長く続いたのは火葬場だけだ」と小沢信男にいわせている。人生最高潮は、天覧競馬を開催したころだろう。軍馬関係で富国強兵の国策に上手く乗っていた。また他に屠蓄場が出来たときは、独占を守るべく、それなりの努力をしている。これに成功し、嬉しさのあまり、羽田に穴守稲荷を寄贈している。現・穴守神社である。どうでもいい話だが、穴守神社に羽田空港が出来たのであり、羽田空港に穴守神社が出来たのではない。
 
 さて、荘平の子供は30人だ。手を抜いたのか、男子は自分の荘の字に数字をつけ、女子は数字だけとし、読み方を工夫した。長女だけは栄子といい、長じて【木村曙】のペンネームで作家として成功する。男子も7番,8番,9番は画家として成功、木村荘太は小説家、木村荘十、つまり10番は直木賞作家、12番に映画監督がおり、妾腹の子供は、芸術方面に傑出した才能を開花させた。
 

 “いろは大王”と呼ばれたが、明治39年(1906)没した。その後の“いろは王国”は養子の木村荘蔵がついだが、半年と持たず倒産した。なぜ養子 に事業を継がせたかは全く分かっていない。妾腹の子供たちは芸術分野で業績を残す。ウィキ ぺディアによると、木村荘平:いろは合名会社社長、東京家畜市場会社(屠場)理事、東京諸畜売肉商(肉卸問)組合頭取、東京博善株式会社(火葬場)社長、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉 つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(エビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問、芝区議会議員、東京市議会議員、東京府議会議員。当時日本最大の牛鍋チェーン店"いろは"を経営し、いろは大王と謳われた。と記されている。享年67歳。

※小沢信男『書生と車夫の東京』