思い、伝われ -5ページ目

思い、伝われ

これまで9年間にわたり、『よねちゃんのつれづれ便り』というタイトルで思いを綴ってきましたが、この度リニューアル致しました。よろしくお願いいたします。

少なくとも20年近く前から「障害」を「個性」と捉える向きがあるけれど、「障害」は、当事者にとっても「じゃまなもの」「出来ないこと」であるし、「生きていく上で背負っていかざるを得ないもの」である。

障害をもたない人とともに学び、働くことが今ほど「当たり前」でなかった時代は当事者自身が障害をもたない人についていくことに必死で、なおかつ、「当たり前に出来る」ことで、周囲の理解を得ていくほかなかった。

障害はもっているけれど、障害をもたない人に負けないくらい、もしくは、障害があることを感じさせないくらいの、秀でた「何か」をもっているということが、その人の「強み」だ。

その「強み」は自分の好きなことであったり、家族以外の第三者と関わることで引き出されたりする。

その「強み」をもって、障害をもたない人と同じ土壌で戦える、あるいは、認めてもらう「武器」となり得る。

そこにたどり着くまでには、障害をもたない人と同じように、たとえ、歩みは遅くとも、努力の上で得たものだ。


「障害」は「障害」でしかない。けれど、確かにその人を表す要素のひとつではあると思う。


ただそれだけでいいのか?個性って、生まれてから、その人、その人を表すもの

だからこそ(今は特に「個性」ということばに、性格だけでなく、生き方までの意味合いをもたせているようだけれども)、プラスになる「何か」がなければ、ものすごく軽く感じてしまうし、オブラートに包まれた表現だと思う。


先輩方の努力の上で「今」があり、「障害をもつ人」に対する、「障害をもたない」人へのイメージを、自らの行動やことばで少しでも変えてきた(それは自分のためでもあったけれど)、当事者のひとりとして「障害」を「個性」だということに、強い違和感を覚える。


障害をもつ人のみならず、障害をもたない人にとって「やさしい社会」ではないのだから。