私の心にパラダイムシフトと呼べるほどの
大きな変化が起きました。
おそらくそれは、2019年の1年をかけて
じっくり下ごしらえをして少しずつ少しずつ。
その象徴的なことの1つとして感じるのは
これまでフォローしてきた
有名ブロガーさん達の言葉が
全く心に響かなくなったことです。
その方たちが変わったわけでも
魅力を失ったわけでもなく
ただ私の感性の質のようなものが
変化しただけです。
これまで必要だった存在が
その役目を果たし終えてくれた。
吸収すべきを吸収し
「さあ次の花を探そう」という心境です。
いや、
「目の前の花を楽しもう」
という方が近いのかもしれない。
心屋界隈の騒動が決定的に
私の背中を押してくれたように思います。
もうここでの学びは終わったんだよ、と。
実はそれはもう結構前から
私の中に生まれた感覚だったのだけど
執着とか未練という感情で
あちらとこちらを行ったり来たりしてました。
そんな私だったから
現実でもそれを象徴するようなことが
何度か起こりました。
自分が全否定されたように思えるほど
誰かとの関係が拗れたり
大切に思ってた人とすれ違いが生じて
悲しい結末を迎えたり。
そういう出来事に遭遇するたびに
「何故?」と問うのだけれど
全く意味が分からない。
自然淘汰が起きたのだろうと
わかったようなフリをしてみたりするけど
どうにも心に引っかかる。
それを心から信頼する人に打ち明けると
私の中に湧き上がるのは
「忸怩たる思い」でした。
何故かって
話せば話すほど
私がその方々と真摯に向き合えなかったという
情けない事実に気づかされて
自分の弱さ、未熟さを痛感させられるからです。
私を大切に思ってくれる心優しい人たちは、
「気にすることないよ」「あなたは悪くないよ」と
慰めてくれる。
相手の落ち度を指摘して
相手への怒りの感情が湧き上がり
「そうだよ!私は悪くない!」と思う。
でもしばらくするともう一人の私がこう言う。
「本当に?」
「本当にそれが結論?」
「それでいいの?」
すると、こう私が呟く。
いいや。
その怒りと自己肯定は
私の核心とかけ離れてる。
私は怒りで誤魔化して視点を逸らし
自分を正当化することで逃げ出しただけだった。
本質を見失って
上澄みを撫でてただけだった。
結局私は
自分の愚かさ、未熟さから目を逸らしたいがために
自分を正当化して逃げ出しただけ。
だから停滞するし
同じようなことが繰り返し起こる。
私が気づくまで何度も何度も。
そしてその度に心が掻き乱される。
その波の中で核心部分が見え隠れする。
相手の悪口のようなものを言いながら
本当は心で泣いていた。
「私はなんて卑怯で情けない人間に成り下がったんだ」と。
それに気づけたのは
最後に起こったある方との出来事で、
突然一方的に責められて相当凹んだお陰でした。
言われてる内容に心当たりはなく
相手の思い込みだと思った。
でも何故か心に深く刺さって
その棘がなかなか抜けてくれなかった。
そのことを繰り返し考えていると
その方の怒りの奥にある
私に向けられた期待と信頼を理解するようになり、
それに気づけなかった自分の浅はかさや
報いることが出来なかった悲しみが
私の心の奥にあったことに気づいた。
そして思ったのです。
腹をくくって真剣に生きよう
どんなに険しくてもその山を登ろう
もう逃げるのはやめようと。
私がカウンセラーとして
ご相談をお聞きしているとき
その問題の奥にあるテーマを
大切にしてきました。
問題の表面だけをなぞってそれを消そうとしても
意味がないと思うからです。
例えば誰かとの関係において問題が起こったとき
大抵の場合「相手がこうしてくれない」と
問題の在り処を自分以外にしていることが多い。
そうして相手が変わることばかりを考えて
自分の行動を起こすので
問題は一向に消えないし、
消えたとしても別の人間関係で
同じようなことが起こります。
問題の在り処を自分として捉え直すことで
ようやく本題に向かう準備が整う。
例えば
パートナーの頼りなさが問題だと思うのなら
自分の中にこそそれが存在することを自覚して
そこを育て直していく意識を持つ。
そして
そのプロセスで沸き起こる怖さや不安と対峙して
本当の意味での自立した生き方を獲得していく。
そう、結局は自分の課題なのだと思うのです。
でも自分のこととなると、これが難しい。
すぐに目を逸らしてしまう。
耳触りの良い慰めの言葉に寄りかかり
内省したり、向き合うことから
いとも簡単に逃避する。
弱さを伴う自分の本音は
「そんなもの必要ない」と切り捨てようとする。
そういう行為こそが弱さの表れであり
問題の先送りでしかないのに。
多分私は、そういう自分をもう終わらせようと
どこかで思っていたから、
自分がカウンセリングを受けることを
決意したのだと思います。
大学で心理学を学んでいたとき
教科書に書いてありました。
「カウンセラーも心理分析を受けなければならない」
それがずっと心に残っていました。
自分の心さえ見つめようとしないで
誰かの心を扱う資格などあるはずがない。
だからこそ私はこのブログに
自己分析ばかり書いていたのだと思います。
けど自己分析には限界があります。
思い込みや価値観という制限があるから。
どうしても自分だけでは手の届かない領域がある。
それに、
「カウンセリングを気軽に受けてほしい」
などと人に勧めているくせに
自分が受けたことがないということにも
常々違和感があった。
そういう自分の本音を私は心屋流にかこつけて
見ないふりをしてきました。
私が「こうしたい」と思ってるものが
堅苦しいものだと感じていたし
険しい道のりだと分かっていたから
楽な方を選んでいたのです。
そういう自分に気づいたのは
カウンセラーとして
沢山のクライアントさんに出会ったお陰でした。
そして最後にとどめの一発をもらい
我に返ったのです。
ピンチはチャンスとはまさにこのことでした。
そんな出来事を経て
お正月にほのぼのとした家族との時間を過ごし
毎朝永平寺で学んだ通りに坐禅したり
河合隼雄さんの本を読み漁り
積読本だった心理学の本を読んで感銘を受けたり
茶道を更に真剣に取り組み始めて
益々お稽古が楽しくてたまらなくなり
ある事情から
秋に受講することを決めた、
1月末からスタートの講座を辞退したり
生活を整えることを意識してみたり
そうこうしていたら
私の中で何かが決定的に変わりました。
これまで慣れ親しんでいたものが
心を動かさなくなっていったのです。
そんな頃、哲学的なヤンキーの落書きを近所で発見して、なんだか感慨深いものがあった。どういう心境でこれを書いたのか是非お酒を酌み交わしながら聞いてみたい。
以前「心理カウンセラーをやめる」と
書きました。
でもそれは正確に言うと
「心屋流のカウンセラーをやめる」
だったことに最近気づきました。
結果的には一旦休止することが
私には必要だったと思うから
結果オーライなのですが
厳密に言うとそういうことでした。
心屋流の師であるあきこさんが
マスター講師を辞められることになり
益々その気持ちの輪郭がくっきりしました。
もうしばらく休んで
「今だ!」と思うときがきたら
再開しようと思います。
そんな今朝。
兄から昨夜半澤鶴子さんの番組がやってたと
連絡があり、久々に彼女の過去の動画を
観てました。
半澤さんは茶道具を車に乗せて
全国を一人で自ら運転して周り
その土地の人に
時には漁港のコンクリートの上で
時には雪の積もった河辺で
懐石料理からお抹茶までを振る舞う茶事を
旅をしながらしておられる方です。
この方の生き方が私はとても好きです。
旅と茶道って最高な組み合わせ。
2016年に初めて彼女の存在を知ったとき
記事を書いていました。
この記事の中にも書いた言葉
「花一輪に飼い慣らされる」
今回動画を見直したときにも
やはりこの言葉が印象的でした。
どういう意味だろう。
前回もそう思って調べたけれど
どこにも答えが書いてなくて
分からないままでした。
でも今日はなんとなく
勝手な解釈で間違ってるかもしれないけど
こういうことか!と閃きました。
和尚さんと半澤さんのやり取り。
そこに答えがあったのに
前の私はそれを聴いても尚
意味が理解出来なかった。
ーー
半澤さん
利休さんがね、もし70で切腹せんと生きてらしたら
どんなお茶をなさったかなという模索の、
畏れ多いけどそんな模索の旅でもあるんです。
和尚さん
利休さんていったってあの人の人生だから
それと同じことは出来っこないんだし
そこから感じ取って、自分だったら
千利休さんもこうやっていただろうから
こういうようにしたらいいんだなってことを
花一輪に飼い慣らされていったら?
半澤さん
あー、花一輪に飼い慣らされるって
良い、究極の言葉やね
和尚さん
それしかないですよ
そういうものに、その場その場にある
その土地その土地にあること、を感じ取れたら…
半澤さん
あのありのままの花の美しさのことを思うと
なーんも思い煩うことなく旅をしたらいいか…
和尚さん
ほんとそうだな
人生ってそれだから
ーー
利休さんにとらわれ過ぎず
参考にするにしても
自分の閃きを大切にしなさい
あなたはあなたが思うように生きれば良い
花一輪に飼い慣らされるとは
ただそこに咲いているだけで
人の心を動かす花の持つ力や
出会う人達、その土地の持つ魅力に
感動する己の感性を大切にして
それに身を委ねたらそれだけでいい
その時感じて閃いたことをしていけばいい
そこに理屈も正しさもいらない
そういうことかなと思いました。
そしてその言葉は
今の私に必要だからこそ
心の深いところに響いたのでしょうね。
心屋も2015年の私には絶対必要で
そこで出会う人たちの言葉も
気づきや道しるべを与えてくれたし
そこで出会った人たちとの間で起こった出来事で
心が上がったり下がったりする経験も
その時の私に絶対に必要だった。
そしてその学びは
もう私の一部になってる。
でも2020年からは
これまでと違うステージに入った。
視点も、必要とするものも
物事の解釈も変わっていくでしょう。
だからこれまで私とブログや
カウンセリング等を通して繋がってくれた方々も
離れていかれる方もいらっしゃると思います。
読んでいて「なんか違う」と感じる方も
いるかもしれません。
そう思ったら読者登録を解除してくださいね。
私は一旦情報を遮断する意味で
読者登録をほとんど解除しました。
興味が無くなったとか
嫌いになったという理由ではありません。
私がこの人はどうしてるかなと
心に浮かんだ人がいたら
検索してでも読むと思ったし
いいねから飛べばいいのだし
しばらくはそういうスタイルでいてみようと
思ったのです。
受け身になるのではなく
主体的になるという意味で。
(主体的引きこもり)
FBはもうほとんど見てません。
誰かの日常や考えや言葉が
アプリを開いたら勝手に流れてきて
目に入ってくるということが
やっぱり私はあんまり好きじゃない。
電話や手紙や面と向かって
話す情報だけでいい。
どうしても気になるなら
検索するか、連絡したらいい。
クライアントさんなら
お会いしたときだけ心を一心に傾ける。
そうして心の余白を作ることにしました。
情報化社会の波に
溺れかけていたのかもしれません。
元々私は独りぼっちが
案外嫌いじゃなくて
一人で過ごす時間があるからこそ
誰かとの時間を深く味わえると
感じていました。
そしてここ数年の私は
特にSNSを始めた辺りから
自分や他人の心に対する感受性が
鈍くなってきた感覚がありました。
特に今は
外に向かっていたエネルギーを
内側に向けている時期なので
情報が入り過ぎると
余計にストレスに感じるようです。
ブログも更新が減ってますが
何か感じるものがありましたら
また読んでやってくださいね。
また長くなっちゃいました。
バカは文章が長くなる、とどこかで読んで
なら私は死ぬまでバカでいいと思いました。
皆さんも誰が何と言おうと
自分の感性を大切にしてください。
それがポジティブだろうが、
ネガティブであろうが。
それではまた(。・ω・。)






