前回の「久米と佐久のライン」の最後の方で、爾久良支命のことを次回は取り上げる予定と書きましたが、たまたま出会った気になる事柄をメモしておかないと忘れそうなので、変更します。
気になることを見つけたのは、宝賀寿男紀氏著「平群氏ー韓地・征夷で活躍の大族」の84ページです。日本に僅かしかない地名「久礼」が、朝鮮半島にあったことに驚きました。
(前略)
さて、この卓淳国とは、朝鮮半島南部のどの地方に比定されるのか。 百済からの使者が沿岸航路 によったとみて、卓淳国を朝鮮半島南海岸の昌原や漆院(ともに慶尚南道) に比定する見解があり、 これに対して、来たのが陸路とする見方に立ち、古名の達句伐で卓淳の卓に通じるとして大邱 (慶尚北道)に比定する見解がある。 田中俊明氏は、百済使節が倭に向かうのに内陸部の大邱で道を尋 ねたというのは、たとえ虚構でも首肯できないとして、海岸部の昌原 (慶尚南道)という説を採るが、 学界では大邱説のほうが多いし (日本古典文学大系 『日本書紀』 補注など)、 地理的にこちらが妥当であろう。欽明紀五年三月条に、新羅が卓淳を取り久礼山の守備兵を追い出したとある記事も、 慶尚北 道の地域を傍証する。 伽耶から内陸の大邱あたりまで、当時の倭の関係者が訪れていた可能性もる。
当時の交通事情からいえば、百済からの使者はむしろ陸路で卓淳に来たとみられる。そうした陸路としては、現在の京釜高速道路に沿う形の経路が考えられる。いまのソウル付近、漢江の南にあった百済の国都・漢城から出発し、大田・沃川を経て秋風を越え、金泉・亀尾・倭舘あたりを経て大邱に至る道筋である。内陸部の大邱に卓淳国があった場合には、倭国への道は知らないが、海路で大船に乗って倭国に通いうるという卓淳側の答えと、この答を受けて、いまは通いえないが、さらに還って船舶を備えて通うことにしようという百済側の考えは理解できる。
(後略 引用終わり)
私の読解力が足りないせいなのか、韓国に「久礼山」という名称が現在もあるのだと思えたのですが、簡単に検索して見つかったのは、求礼(クレ)だけでした。
また、慶尚北道にクレ山は見つけることが出来ませんでした。
求礼郡 - Wikipediaで朝鮮半島の名山の一つである智異山(チリサン)が郡の北東にそびえていることを知りましたので、「智異山 慶尚北道」で検索してみましたが、「【韓国大規模山火事】智異山まで広がった山火事…死傷者52人で過去最多 : 政治•社会 : ハンギョレ新聞」と題するページのような、慶尚北道義城で発生した山火事が智異山国立公園まで襲ったという被害の大きさを報じる気の毒な記事で、智異山と慶尚北道との距離を感じました。
その次に、「第2回 ツツジ名山、智異山パレ峰 森正哲央|記事・コラム一覧」と題するページで「忠清北道と慶尚北道の道界にそびえる小白山(1440m)」を知りましたので、小白山脈 - Wikipedia を読むと、「南端には山脈の最高峰である智異山( 標高1915m)がそびえる。」「日本のフォッサマグナに相当し韓国の文化を分ける境界線になっている。」ことなどを知りました。
久米ら山祇族が好みそうな地だと思いましたので、大韓民国全羅南道の北東部にある求礼郡に注目しようと思ったのですが、念のためにと国立国会図書館デジタルコレクションで検索し、古代韓日関係史の研究 : 任那日本府と加羅諸国 - 国立国会図書館デジタルコレクション と出会いました。
88コマに「久礼が、現在のとこにあたるかについては詳らかではない。ただ、この記事からみるかぎりでは、かつての加羅地域であったことだけは確かである。(49)」と書かれています。
93コマに載っている註49を全文引用します。
には、 慶尚南道玄風に比定している。 しかし、氏の指摘されたように、クレは韓国語
kuremi (苞の意)で、『東国輿地勝覧』玄風県山川条の苞山(クレミサン) は、星州・密陽・昌寧等地にもみえ、すべてが旧加羅地域である。即ち、ある時期に クレ なる地名は、加羅の地に広く分布し、加羅の代称として使われた可能性もある。 現在も智異山麓の求礼、 昌寧の求礼が残る。筆者は、昌寧南西の洛東江岸の地に比定する。
(引用終わり)
「クレミ」…久留米と似ているなんて思うのは、私だけでしょうか?
まんざらでもない思いつきかもと感じる理由に、久留米ー久米八幡宮( 熊本県菊池市泗水町豊水)ー津久礼のラインがあります。
本稿の最初の方で、「久礼」地名が日本に僅かしかないと書きましたが、私が確認できているのは、高知県の久礼と久礼田、熊本県の津久礼、埼玉県の波久礼だけです。
このうち波久礼は、「『波久礼』の地名の由来」と題するページによると、昔は「破崩」「端崩」と書いた災害地名ということですので、久礼、久礼田、津久礼の共通点を見ていきます。
まず最初に、津久礼の位置から。
最初は、久留米、久米八幡宮、津久礼の位置だけをグーグルマップで見て直線状に並んでいることを確認したのですが、地図を埋め込むと久留米城が隠れてしまいました。
そこで、津久礼の南側か久留米の北側に適当に目的地を増やせば解決するだろうと地図を拡大し、たまたま津森神宮を見つけたのです。
当初の予定では地図に地名が表示されるグーグルマップだけを載せるつもりでしたが、久留米市東櫛原町の櫛原天満宮でしたらポインターの先の方で繋がることが地図に複数住所を一括表示 | しるしーずで確認できました。
杉山正仲, 小川正格 編 ほか『筑後志 : 校訂』,本荘知新堂,明40.3. 国立国会図書館デジタルコレクションの228コマ目 https://dl.ndl.go.jp/pid/766672/1/228 の櫛原天滿宮の項に、次のように書かれています。
里老傳へいふ、菅公太宰府に左遷の後、鄰州より用度の料を進献せしに、當州よりは每歲櫛原村より献ぜし故、自ら菅公の所領の如く成れり。
(後略 引用終わり)
菅原道真の母は(大)伴氏の娘であり、大伴氏は久米氏と同族との説に拙ブログは従っています。
1,津森神宮、〒861-2201 熊本県上益城郡益城町寺中708
32.8011721957552, 130.84184985811137
2,津久礼、〒869-1101 熊本県菊池郡菊陽町
32.86093756330937, 130.80577951128157
3,久米八幡宮、〒861-1212 熊本県菊池市泗水町豊水
32.930760135837694, 130.76637115533256
4,櫛原天満宮、〒830-0003 福岡県久留米市東櫛原町1324
33.32268430813251, 130.52229680104446
久米八幡宮が少しラインから離れています。もしかしたら、同じ旧久米村の「久米古墳」あたりが丁度なのでは?と想像するのですが、グーグルマップで見つけることができません。
津森神宮がライン状に並ぶことまでは期待していませんでしたし、創祀の欽明天皇2年( 540年) が、『日本書紀』に任那日本府が現れたのと同じ年であるということに驚いています。
ちなみに、『筑後志』の280コマでは、「神武帝の建國に當り、佐命の元勳たる大久米命は恐らく州の久留米と大關係を有し給はんと。」等、考察されています。
津森神宮の「ご由緒」には、朝鮮半島との関わりは一切記されていませんので、単なる偶然なのかもしれません。
けれど、神武天皇の神霊が現れたので時の国司藤原法昌が社を建立したということは、久米の子らも一緒に現れていたのではと妄想してしまいました。
伝承では欽明天皇の2年(西暦540年)9月29日夜丑の刻だったということですが、9月29日は聖ミカエルの祝日でもあります。こちらは、多分、偶然なのでしょう。
「久米の子ら」といえば、熊本県菊池市泗水町豊水を鎮座地とする久米八幡宮については国立国会図書館デジタルコレクションで調べていないことに気づきました。
2020年10月4日にアップしたレイライン? | 久米の子の部屋 https://hama-sush-jp.pro/yabutsubakime/entry-12629443063.html でご紹介した石鎚という呼び名の約40mの石群以外の、何か特別な歴史を期待して検索し、菊池郡市神社誌編纂委員会 編菊池郡市神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3004939 の179~181コマに久米八幡宮の項があることを知りました。
『菊池郡市神社誌』には『合志川芥』における久米八幡宮の記載が紹介されていて、並列タイトルを『合志川芥改定』とする『肥後郷土史』第1編,合志史談会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213670 の44コマに見つけることが出来ましたので、引用します。
十七、久米八幡
久米村に在り宇佐甲佐阿蘇の三座と云ふ社人の記には承平の際相馬将門調伏の爲め九州に五ヶ所の八幡宮勧請の其一つなりと云ふ此説用ゆ可らず其五ヶ所の八幡宮は當國にては藤崎八幡宮と傳ふる事普く人の知る所なり其外所々の説多し揚るに足らず
(引用終わり)
久米八幡の創建が平将門の調伏のためだったということに私も違和感を覚えましたので、久米八幡宮の本当の歴史の手がかりを得るために、甲佐神社について調べてみました。
出来れば公式サイトから学ばせていただきたかったのですが、甲佐神社のは見つけることができませんでした。
けれど、熊本県上益城郡 編『上益城郡誌』,上益城郡,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965681 の231コマからが甲佐神社の項となっていて、233コマの【資料二】(索隱甲廟記甲佐祠記抜)に、主祭神の母は対馬の女性であるとする記録を見つけることが出来ましたので引用します。
一書曰甲佐明神御母は對馬の人なり、徃昔阿蘇太神高麗に渡り玉ひ歸朝の時對馬の女を娶て生ます子甲佐明神なり、阿蘇緩の嫉妬に依りて女は對馬に歸る、明神は甲佐地に封し給ふとなり(曲野緣記)一書曰甲佐明神御母は天女諱は八井耳玉命と申奉る(田上氏記)
拝読し、これで私の中で繋がったラインをご紹介できると安堵しました。
そのラインをアップする前に、甲佐神社 - Wikipedia の「祭神」から一部引用します。
なお、八井耳玉命(ヤイミミタマノミコト、甲佐明神)は、阿蘇神社の主祭神健磐龍命の子で速瓶玉命の異母弟であると神系図では位置づけられているが[3]、他に神武天皇の第二皇子神八井耳命の異母弟説、神八井耳玉命が阿蘇家の祖惟人命説、など様々な説がある[4]。
(後略 引用終わり)
脚注[4]の鈴木喬編『熊本の神社と寺院』熊本日日新聞社、1980年、78-79頁は、
熊本の神社と寺院 (熊本の風土とこころ ; 21) - 国立国会図書館デジタルコレクション の43コマで読むことが出来ます。
引き続き、私の中で繋がったラインをご紹介しようと思ったのですが、どうも、リンク先のアドレスにエラーを起こすものがあったようで保存もできなくなり、今回も編集し直す羽目になりました。
とりあえず、投稿してみます。

