今回ご紹介するラインは、 茨城県の久米の地とタヂカラオとの繋がりを地図の中に探していて見つけました。
1,鹿島神社、 茨城県常陸太田市久米町2035
36.549456238811516, 140.48198141278027
2,楯縫神社、茨城県稲敷郡美浦村木原2988
36.01323898406069, 140.30296743036772
3,惣社・戸隠神社、 千葉県市原市惣社218−4
35.49625633372826, 140.10843894609448
4,手力雄神社(館山市)、千葉県館山市大井1129
35.00234271662007, 139.93546529837943
グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず に入力すると、等間隔に近いラインができることが分かりました。
ポインター2の楯縫神社は楯縫神社 (美浦村郷中) - Wikipedia によると、常陸国風土記の信太郡の条の普都神話に描かれている普都大神が楯を脱いだ地、すなわち「楯脱(楯縫)」の聖地とされているとのことです。
1の鹿島神社( 茨城県常陸太田市久米町2035)は、佐竹北家の居城として知られる久米城の跡地に座しています。
佐竹北家 - Wikipedia によると、久米城の周辺地域は「久慈川の周辺であるために田地の生産率が高く、久慈川の水運を抑える要衝だった」のだそうです。
なので、久米の鹿島神社も特別な理由によって創建されたのでは?と想像したのですが、茨城県神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション の541コマに、次のように書かれている程度のことしか分かりませんでした。
【由緒沿革】元八幡宮を鎮斎。元禄中徳川光圀公命でこれを改め、明和四年鹿島の神を奉斎。(中略 引用終わり)
今回はじめて知ったのですが、「光圀の八幡つぶし」というような言い方があるのですね。
水戸八幡宮 - Wikipediaの「水戸藩の寺社改革」の項を引用します。
水戸八幡宮が影響を受けた水戸徳川家の寺社改革は、徳川光圀の寛文年間(1661-1673年)と、徳川綱條の元禄年間(1688-1703年)の二期にかけて実施された 。主な政策は、寛文年間は「寺院整理」及び「一村一鎮守制の確立」、元禄年間は「神社からの仏教的性格の払拭」だった。
寺社改革のうち、神社に関わるものを「神社改め」「鎮守改め」(「改め」は「御改」ともいう)というが、八幡社の改廃が際立つことから「八幡改め」ともいう。非難がましく言及する場合には「八幡潰し」ということもある。この時の「徳川光圀の検分」により祭神、神体、社名等を改めた云々という由緒を持つ神社は、八幡社に限らず、茨城県内各所に存在している。なお、八幡社が標的にされた理由としては、八幡信仰が神仏習合と密接であったことに加え、水戸徳川家の前に500年近くにわたって水戸藩域を支配してきた佐竹氏が地域の土着神や旧来の豪族が崇敬する神に代わる形で八幡社を広めた経緯があり、旧支配層(佐竹氏)との関係を断ち切る意図があったとする指摘もある。
(引用終わり)
中臣氏の祖神とされる武甕槌命を、何故、「久米」地名に祀ったのだろう?と不思議に思っていたのですが、常陸太田市史 通史編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション 109コマに、「藤原鎌足の封戸は、佐竹、久米や大田、薩都の郷里の戸があてられ、調、庸や租を納めたものと思われる。」と書かれているのを見つけました。
だから武甕槌命なのだろうか、と一応は納得しました。けれど、藝林 36(2)(190);1987・6 - 国立国会図書館デジタルコレクション に所載の久信田 喜一氏著 「古代常陸国久慈郡の郷について--久米・楊嶋・真野・世矢郷を中心に」に、次のように書かれています。5コマから引用します。
(前略)
久慈郡の郡司については、豊崎卓氏は、『風土記』 久慈郡条に、天智天皇の時代に藤原鎌足の封戸を視察するため久慈郡に遣わされ、堤を築いて池を造ったと記されている「軽直里麻呂」と、同書同郡条に、この人の時代に河で鮭を取ったというので地名を助川と改めたという記事の見える「国宰久米の大夫」の二人を久慈郡の郡司であったとしているが、しかし、軽直里麻呂の説話については、天智朝に鎌足の戸が存在したかどうか疑わしく、国宰久米の大夫の「国宰」も、結局は常陸国守のことを言うという説が有力であるので、二人を久慈郡の郡司と見ることは妥当でない。
(引用終わり)
豊崎卓氏の説は、常陸国府・郡家の研究 : 東洋史上より見た - 国立国会図書館デジタルコレクション の17、168、180コマあたりが該当するようです。
私にとって気になることは、「久米の大夫」が久米部及び久米直であるのか、それとも常陸の「久米」という郷において力を持つ別の氏族なのか、ということです。
インターネットで検索して見つけたpdfに、神尾登喜子氏の論文がありました。
『常陸国風土記』地名起源伝承考「―古老相伝をめぐって―」には、次のように書かれています。
(引用終わり)
「角川地名大辞典(旧地名)」助川郷(古代)の解説ページ では、「国宰久米の大夫(斉明・天智朝の常陸国守来目臣塩籠)」と断定されていて驚きました。
他には該当者がいないということなのでしょうが…。
同時代には、「勇士来目(たけきひとくめ)」がいます。
来目 - Wikipedia の「経歴」を引用します。
『日本書紀』の中で、来目は7月5日頃に奈良盆地の西部で起きた葦池の側の戦いに現れる。この会戦では大伴吹負が率いる大海人皇子側の軍と、壱伎韓国が率いる大友皇子(弘文天皇)側の軍が戦った。書紀によればこのとき、来目は刀を抜いて馬を走らせ、敵軍の中にまっすぐ突入した。吹負軍の騎兵が直後に続き、そのせいで敵軍は逃げ出した。韓国は軍から離れて独り逃げた。吹負はこれを遠くから見て、来目に射させた。来目の矢は当たらず、韓国は逃げおおせたが、敗走した軍を立て直すことはできなかった。この戦勝で吹負は西方からの脅威を排除した。
来目についての記述は他に見えない。劇的な活躍をした人物なのに名が欠けていること、戦後に来目を賞する記事が見えないことから、来目の実在を疑う学者がいる。その説では、『日本書紀』編者、あるいはそれが参考にしたと想像される大伴氏の記録を作成した者が造作したという。なお、壬申の乱では他に来目塩籠が現れるが、こちらは来目臣であり蘇我氏に連なる人物である。
(引用終わり)
来目臣塩籠は大海人皇子側につこうとして軍を集めていたが、韓国に事が漏れたことを知って自殺したということです。
もしかしたら、「くめ」の名を汚した来目臣塩籠のことを許せない人たちがいたということでしょうか。
来目臣は、蘇我氏族に属する皇別氏族で、先祖が天孫降臨に供奉したとされる久米氏とは別系統とされています。
けれど、来目臣塩籠と同じ氏である久米広縄と大伴家持との関係から、久米広縄は大伴氏にとって同族と認めうる性格や容貌であったのでは?と私は想像しているのです。
拙ブログでは、[ID:31789] おおとものうじのかみ : 資料情報 | 研究資料・収蔵品データベース | 國學院大學デジタル・ミュージアム に次のように書かれている説を重要視しています。
(前略)
万葉集の家持歌から推察するに、久米氏の本宗か支族が天皇家との特別な関係から「大伴」と賜名された可能性もある。
(後略 引用終わり)
久米広縄 - Wikipediaによると、広縄の邸宅で2度宴が開かれていることから、家持を満足させる食の好みでもあったような気がします。
食事の準備は、御食の調理に当たっている家とかでなければ基本的に女性の仕事でしょうから、共通する母系の伝統によって育ったのでは…と妄想しています。
妄想ではありますが、実感でもあります。というのは、母には四人の姉妹がいますが、母の作る卵焼きやお漬物を母方のいとこたちが「家と同じ」と喜んで食べていたからなのですが。
今回の記事を書くために、曽我氏族の久米氏も母系を通じて天津久米命の子孫とするような考察を探し、高寛敏氏著「建内宿祢系譜とその物語」のpdfを見つけました。
「久米」について触れているのは、4コマ目の系譜と、6コマ目だけですが、珍しい考察だと思われますので、引用します。
(前略)
系譜(三)の最大の目的は、 系譜(二)に反映された蘇我氏のこのような主張を否定することにあった。 蘇我氏の始祖を葛城氏から切り離したのは そのためであるが、 葛城色を弱めることにも意を用いた。葛城長江曽都毗古の後裔から葛城臣を消去し、怒能伊呂比売を仁徳の母の位置から追放した。建内宿祢の母も葛城之高千那毗売で あったのが、木国造出身の山下影日売へと改変された(20)。武内宿祢の妻の名もあったと思われるが、それは系譜(三)で建内宿祢の女とされた久米能摩伊刀比売であったと想像される。系譜(三)はこの女性が建内宿祢の妻としてはふさわしくないと判断したのであろうが、「久米」 は系譜(二)物語(二)ではが付与されていたのである(21)。
(後略 引用終わり)
注(21)にあたる高寛敏氏著「五世紀、倭国の王統譜とその物語」のpdfもインターネットで見つかりました。
高寛敏氏のいう「特別な意義」について期待していたのですが、17コマには次のように書かれています。
(前略)中央周辺の久米直としては、 養老3年11月に忍海手人らが久米直と改姓されたのが初見である。『新撰姓氏録』 左京神別・右京神別にみえる久米直とは、この忍海手人の後身の流れとみるのが穏当なのである。(後略 引用終わり)
これと同じ中澤見明氏の説が 高群逸枝全集 第1巻 (母系制の研究) - 国立国会図書館デジタルコレクション の242コマから紹介され、高群逸枝氏によって論破されています。
ちなみに、中澤見明氏著古事記論 - 国立国会図書館デジタルコレクション の70コマに書かれているのは、「忍海午人廣道」「忍海午人道廣」となっています。
正しくは、「忍海手人廣道」のはずなのですが。
そして、「『古事記論』の誤りを指摘する」と折口信夫氏著日本文学史ノート 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション の中の209コマ(五十 久米直と野見宿禰と―古事記は僞書か (四)―)に見つけたので調べてみると、やはり、中澤見明氏著書のことでした。
なので、私は久米についての高寛敏氏の見解を気にしないことにしたのですが、「五世紀、倭国の王統譜とその物語」の結論にあたる箇所に引っかかることがあります。
推古代の編史事業では、葛城系王統が架上され、多くの物語がつくられた。仁賢は仁賢・顕宗兄弟とされ、その即位の過程もよりドラマチックなものに仕立てあげられたが、それは上宮王家や蘇我氏の構想によるものと考えられる。 その構想の基底には、二〇代にして筑紫で客死した、厩戸の実弟の来目のことがあり、来目のことは、建国物語の来日直(来目部)や来目歌としても、その存在が刻まれた。
(引用終わり)
推古代の編史事業では、上宮王家や蘇我氏の構想により、来目の存在が刻まれたのかもしれない。
そういう視点を、今回得ることができました。
折口信夫氏は、久米氏 - Wikipedia の「由来諸説」の項によると、クメ=クベ(垣)で「宮廷の御垣」と考察しているとのことですから、出典を探してみました。
折口信夫全集 第16巻 (民俗学篇 第2) - 国立国会図書館デジタルコレクション の127コマから「久米歌」、160コマから「久米部の話」が始まります。
161コマに、「南方の築坂、西方の久米の地に、大伴・久米の族長と部民とを居らしめられたのは、宮廷の御垣を衛らしめられたのである」と書かれていて、拙記事の最初に載せたラインも、何かに対する垣に見えてきました。
それは大きな脅威に対しての垣なのではないか…と迷想しているうちに、茨城県常陸太田市付近の久米層産貝化石群なるものが関係していないだろうか?と思いつきました。もし当たっているなら、他のポイントの近くにも何かあるはずとは思っていたのですが。
惣社・戸隠神社が鎮座する千葉県市原市にはチバニアンがありますね。
1,鹿島神宮、 茨城県鹿嶋市宮中2306−1
35.96880428471713, 140.6315071731044
2,芝山古墳群、 千葉県山武郡横芝光町
35.68089087266049, 140.42020341738097
3,養老川流域田淵の地磁気逆転地層(国天然記念物チバニアン)
35.294471250348344, 140.14664290829737
4,手力雄神社(館山市)、 千葉県館山市大井1129
35.00234271662007, 139.93546529837943
上のグーグルマップで知ることが出来た経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず に入力し、ポインターの先で繋がる美しいラインになることが確認できました。
柴山古墳群といえば、埴輪の造形が某民族を連想させると言われていますが、このラインと関係しているのでしょうか…?
今回の記事は一か月前にアップする予定でしたが、エラーが出てしまいました。
おそらく、買い替えたパソコンのメモ帳がアメブロには合わなかったようです。
いったんテキストメールにコピーしてから切り取るというような作業をしたのですが、いつも以上のミスがあるかもしれません。
気づかれた方は、お知らせ下さると助かります。


