今回は、前回の古代山城と久米、そして古墳について | からの続きです。
前回の最後のほうで、「金谷山部古墳の位置を地図で見てみると、石塚山古墳―鬼ノ城跡―金谷山部古墳と繋がることが分かりました」と書きました。
もしかしたら、このラインの中に、竹島御家老屋敷古墳(周南市竹島町)も入るかもしれませんが、残念ながら、正確な位置を示す地図や経緯度を見つけることが出来ずにいます。
それから、大分県玖珠郡の鬼ヶ城古墳―岡山県岡山市の久米―備前車塚古墳―金谷山部古墳のラインも見つかりました。
1,石塚山古墳(国指定史跡)、福岡県京都郡苅田町富久町1丁目18−5
33.77559020339118, 130.97985737011237
2,鬼ノ城跡、 岡山県総社市
34.726556435584264, 133.76378763392398
3,金谷山部古墳、 兵庫県宍粟市山崎町金谷
34.991765319005985, 134.53426223172357
4,備前車塚古墳、 岡山県岡山市中区四御神
34.701666583638044, 133.9759993616802
5,久米(蟹八幡)、 岡山県岡山市北区
34.64331407017516, 133.8717465467585
6,鬼ヶ城古墳(県指定史跡)、大分県玖珠郡玖珠町帆足
33.29320382947574, 131.16550326339365
緑のラインの4の備前車塚古墳の存在に気付いたのは、石塚山古墳 - Wikipediaの「出土遺物」の項に、次のように書かれているからです。
出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている舶載三角縁神獣鏡6種7面、素環頭大刀、銅鏃があるが、小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡は11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である。
(後略 引用終わり)
また、「築造年代」の項には「 石塚山古墳は京都府椿井大塚古墳、岡山県備前車塚古墳などと同じく墳丘に円筒埴輪列が見られない。」とあることから、椿井大塚古墳と備前車塚古墳の位置を地図で見たところ、鬼ヶ城古墳―岡山県岡山市の久米―備前車塚古墳―金谷山部古墳のライン上に並ぶことが分かりました。
京都府椿井大塚古墳と繋がるラインは未だ見付けていませんが、拙稿の赤いラインの中に並ぶかもしれない竹島御家老屋敷古墳(周南市竹島町)と同笵鏡が知られる三角縁神獣鏡も発見されています。
「【九州国立博物館】(計22件)」と題するpdfの5コマ目「8 重要文化財 山口県竹島古墳出土品」の項の「作品概要」から引用します。
中でも三角縁神獣鏡のうち1面は、群馬県蟹沢古墳出土例、兵庫県森尾古墳出土例と同型鏡で「正始元年」の年号を持つ記銘鏡であることが知られる。またもう1面の三角縁神獣鏡も、京都府椿井大塚山古墳、福岡県神蔵古墳、神奈川県加瀬白山古墳出土品に同笵鏡が知られる古式の三角縁神獣鏡である。古墳時代前期前半の地域首長墓におさめられた副葬品セットの典型例を示す点でも非常に価値が高い資料群である。
(後略 引用終わり)
今回のラインを、多分偶然ではないと私が思う理由に、備前車塚古墳 - Wikipediaの「概要」の項に書かれていることがあります。
(前略)
この備前車塚古墳は、古墳時代初期頃の築造と推定される。豊富な副葬品からは当時の勢力の大きさが示唆されるとともに、三角縁神獣鏡の同笵鏡論の基準資料としても重要視される古墳である。なお被葬者は明らかでないが、『岡山市史』では『古事記』に見える吉備上道臣祖の大吉備津日子命に比定する説が挙げられている。
(後略 引用終わり)
吉備上道臣が、来目部連小楯より前に山部を管理していたと伝わります。
そして、伊予来目部小楯 - Wikipedia の「経歴」の項を私なりに簡単に纏めますが、市辺押磐皇子の遺子、億計・弘計両王を発見した小楯は、その功で山官に任じられ、山部氏と連の姓を与えられた。そして「吉備臣」を副として「山守辺を部民としたということです。
ラインを引く地図で、ポインター⑤を岡山県岡山市北区久米に座す蟹八幡に付けましたが、緑のラインが通るのは、蟹八幡より少し北のようです。
蟹八幡の位置をグーグルマップで眺めていると、(そういえば、”久米のヒイラギ”が植えられたのは、どこだったのだろう?)と気になりました。
”久米のヒイラギ”は、以前拙ブログで紹介した民話、「鬼と小娘」に登場します。
「鬼と小娘」を読み返し、気が付いたことが幾つかあるのですが、それは次回にします。
できれば本年最後の記事にしたいのですが、新年の一本目になってしまうかもしれません。
岡山県で鬼といえば温羅が有名で、製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方があります。
そこで、岡山県と福岡県における古代の製鉄について調べてみると、財団法人滋賀県文化財保護協会の紀要に掲載された2本の論文のpdfが見つかりました。
まず、第7号の「近江へのアプローチ・その1 4.高島郡の鉄生産とその周辺 大道和人」の4コマ目に、「高島郡及び滋賀県においても古墳における供献鉄滓の報告がいくつかなされているが、先にあげた岡山・福岡両県と比較すると格段に少ない。」と記されていることから、(滋賀県の古代の製鉄といえば、山部連氏の配下となった佐々貴山君がいたな)と思い出しました。
そこで重ねて検索して見付けたのが、第3号の紀要「野洲川下流域の古代豪族の動向 大橋信弥」のpdfだったのです。14コマから引用します。
(前略) 蒲生郡に本拠をもつ佐々貴山君、 高島郡北部に本拠を置く都怒山君 (臣)、 そして小槻山君の三氏がそれで、 佐々貴山君が顕宗紀の所伝に山部連氏の配下とあるように、それぞれの地域において山部を管理していたことと関連するとみられている。山部の職掌については、直接的には山林生産物の貢納とみられているが、吉備や播磨の山部のように、 鉄生産にかかわるものもみられる。 周知のように近江は、畿内近国における唯一の鉄産出国であって、その中でも都怒山君 (臣) の本拠地高島郡北部と、 小槻山君の本拠栗太郡は、古代の製鉄遺跡が集中する地域である。その意味で近江の山部と鉄生産の関係も無視できない。 前節で明らかになったように、 野洲川左岸地域の首長墓や集落から、豊富な鉄製品の出土が知られることなどを考慮するなら、本格的な鉄精錬技術は、現在知られる遺跡の状況からみて、7世紀代に導入されたとしても、その前段階に あって、輸入原料に依拠した鉄器生産が、この地域において発展していた可能性は、かなり大きいと考えられる。
また、山部の中央における統括者であった山部連氏が、伊予の久米直氏に出自し、しかも、いわゆる門号氏族十二氏の中に含まれ、大和政権の軍事面においても、重要な位置を占めていたことは、小槻山君の性格を考える上で、無視できない点であろう。首長墓の武人的な性格、或いは集落における軍事的な出土遺物は、それを直接物語っているといえるが、栗太郡内には、同じく軍事的な性格の強い豪族建部君氏が播拠すること、さらに郷名に物部がみえることなど、それを裏付ける点も少なくないのである。(後略 引用終わり)
財団法人滋賀県文化財保護協会の紀要のおかげで、今回ご紹介したラインは偶然ではないという私の思いは強まったのですが、なんのために、どうやって、という疑問は残っています。
ライン上に位置する他の何かが見付かれば、もう少し想像を膨らませることができるのでしょうか。
〔2025/02/02 追記〕
フォローさせて頂いているスタルペス様の、大分県玖珠町の「鬼ヶ城古墳」の麓の集落にあった「平田山の鬼(鬼ヶ城)」の昔話を紹介する記事です。


