前回の桓武天皇の諱と山部について | 久米の子の部屋 (hama-sush-jp.pro) を書くために、大阪における久米(来目)の活動の跡を探しているとき、「愛来目山(あくめやま)」と「久米路山」を見つけました。

 

比売許曽神社 - Wikipedia の「歴史」には、

垂仁天皇27月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営された。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されている。当社の境外末社・産湯稲荷神社がある地が旧鎮座地と推定されている。

(中略)

『大阪府神社史資料』では、その縁起は「信ずべきものにあらず」と記している。

と書かれているのですが、垂仁天皇は『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命と記され、顕宗天皇の諱は来目稚子ということなので、確かに、少し出来過ぎのような・・・。

 

『大阪府神社史資料』は、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで見ることが出来、https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263 の229~237コマが比売許曽神社のページです。

 

国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスでは、国学院教授でいらした瀧川政次郞氏が『史迹と美術』に執筆した「比賣許曾神社偽書考」()()()も読むことが出来ます。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6067170 の8~13コマ

https://dl.ndl.go.jp/pid/60671714~8コマ 

https://dl.ndl.go.jp/pid/60671724~11コマ

 

(もしかしたら、現在の天王寺区小橋町一帯の高台が愛来目山と呼ばれていたというのも、疑わしいのだろうか?)と思ったのですが、瀧川政次郞氏は、私が見落としたのでなければ、触れていないようです。

 

検索を重ね、吉田東伍 氏著大日本地名辞書 上巻 二版 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 冨山房,1907/10/17.を国立国会図書館デジタルコレクションで見付けることが出来ました。

ログインなしで閲覧可能であり、保護期間満了していますので、「比賣許曾神社址」と題する記事の一部を、203コマからコピペしました。

青と赤の枠は、私が記入しました。

愛来目は、愛倶目や愛久目山とも記されるのですね。

 

久米氏を「倶目」と記すことはあったのだろうか、と気になり検索すると、統一日報 : 新解釈・日本書紀 応神<第72回> (onekoreanews.net) を見付けましたので、今回の拙記事には引用等はしませんが、メモしておきます。

 

それから、顯仲という人物の歌に、「味耜の阿久米の山の朝ほらけきりのまかひに行く人やたそ」というのがあると、大阪府 編『大阪府神社史資料』,大阪府,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263 (参照 2023-04-29) の237コマで見ました。

 

有名な歌ではないと偽作の可能性もあり、本当に「あくめ山」と呼ばれた時期があったのか確認できないのですが、そのことより今回気になったのは、次の箇所です。

 

天明八年東小橋の小祠中樋代より姫社舊記を發見し、(中略)
此舊記は天文二十年味原某の撰述とぞ。

 

三好長慶 - Wikipedia の「晴元・政長との対立」の項によると、

天文19年(1550年)3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。

とのことであり、比売許曽神社 - Wikipedia によると、

式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社であるということで、摂津国で三好政権が誕生した翌年に、姫社舊記が発見されたということになりますが、
これだけでは、特別な意味は無いのです。

 

けれど、高槻城 - Wikipedia の「沿革」に、

10世紀の末、990年に近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが高槻城の始まりと言われているが確証はない。高槻城の文献上の初見は、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野元清に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。

 

その後、芥川山城に三好長慶が入城した天文22年(1553年)には高槻城は支城となっていたようで、入江春継が城主となっていた。

と書かれています。

 

少なくとも、久米路山には三好長慶が関わっているわけです。

 

そして、芥川山城に目を向けると、阿久刀神社 - Wikipedia の「創建」の項に、

境内北方を流れる「芥川(あくたがわ)」の名は当社の社名に因むといわれ、「阿久刀川(あくとがわ)」の転訛により「芥川」となったとされる。

とあります。「あくめ」は「阿久米」とも書かれることと「阿久刀川」には、何か関係があるのでしょうか?

 

「創建」の項には、

創建は明らかではなく、諸説が論じられている。

『神名帳考証』では、『新撰姓氏録』にある「調連(つきのむらじ)」条にある顕宗天皇に絁絹を献じた「阿久太」との関係を論じている。

(後略 引用終わり)

と書かれており、ここにも、「来目稚子」を諱とする顕宗天皇が現れます。

 

阿久刀神社と、高槻城が立っていた久米路山との距離は、グーグルマップによると、徒歩34分程度。今城塚古墳も近くにあり、ここが特別な場所であることを感じます。

 

今城塚古墳 - Wikipedia の「概要」によると、

(前略)

古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。

(後略 引用終わり)

ということです。

 

継体天皇といえば、継体天皇が大伴金村大連の働きに深く感謝され建立されたと伝わる久米田神社が、福井県坂井市丸岡町下久米田1-1に座しています。

 

 

そして、朝鮮から渡来した神と久米との関係についての妄想 | 久米の子の部屋 (hama-sush-jp.pro) を書くことで、次のラインに気付きました。のところに定規などをあててご確認ください。

三穂の石室は、地元では「久米の石室(くめのいわや)」と呼ばれているそうです。

 

このラインの中に、久米路山(高槻城)と、あくめ山(産湯稲荷神社)が入るのでは? と思い試したら、ドンピシャでした。

 

上のグーグルマップでも、久米田神社はラインから少し外れ、気比神宮から三穂の石室までが綺麗に並んでいることがお分かりになると思いますが、精度を確認するために、グーグルマップに表示される経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず (tizu.cyou) に入れてみました。

 

 

1,36.11531540048696, 136.30835682995422 久米田神社、福井県坂井市丸岡町下久米田1−1

2,35.654914262533204, 136.0747256936507 氣比神宮、福井県敦賀市曙町11−68

3,34.8440895928926, 135.62150744639257 高槻城跡(久米路山)、大阪府高槻市城内町1

4,34.666843105679796, 135.52614954947154 産湯稲荷神社(あくめ山)、大阪府大阪市天王寺区小橋町3−1

5,34.45939247752406, 135.41147974960236 久米田寺、大阪府岸和田市池尻町934

6,33.887686123587336, 135.08652476299906 三穂の石室(久米の石室)、和歌山県日高郡美浜町三尾

 

 

気比神宮と、元々あくめ山に鎮座していたと伝える比賣許曾神社との関係を、気比大神 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp) の「諸説」の項と、比売許曽神社 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp) の「略縁起」を読んで、ごくごく簡単に私なりにまとめると、次のようになります。

    

気比大神の正体について、

新羅国王の子の天之日矛だとする説もあり、

日本へと逃げた天之日矛の妻が、

難波の比売碁曾社の阿加流比売神として

鎮座したとも伝える。

 

阿加流比売神の鎮座地について、瀧川政次郞氏が、「比賣許會神社が昔の難波の渡りの内側の入海にあつた比賣島に鎭座してゐた」と書かれているのを、https://dl.ndl.go.jp/pid/6067171/1/5読むことが出来ます。

 

こちらの神社についてもラインを見付けましたので、また、次あたりに書きたいと思っています。

そして、三井寺>連載>新羅神社考>大阪府の新羅神社(6/ 河内の新羅神社(2) (shiga-miidera.or.jp) をメモしておきます。

 

 

そろそろ拙稿を終わらしたいと思うのですが、その前に、話を三好一族である芥川氏に戻します。

 

三好氏の系図から想像する土佐吉田氏と久米義広との関係について | 久米の子の部屋 (hama-sush-jp.pro) で紹介した「芥川系図」は、芥川孫十郎の子孫が伝えたもののようです。

 

「芥川系図」を伝えた家について詳しく知りたい方は、宝賀寿男氏による三好長慶の先祖 (ucom.ne.jp) をお読み下さい。

 

芥川孫十郎 - Wikipedia の「略歴」によると、

(前略)

天文21年(1552年)4月、長慶が丹波国に遠征すると晴元派の波多野元秀と内通して長慶に背いた。12月に一旦長慶の下に帰参したが、翌天文22年(1553年)7月に足利義藤と結んだ晴元に呼応して再び反逆、長慶を東西から挟撃した。しかし、即座に芥川山城を包囲され、8月に義藤らも長慶に敗れ近江国坂本へ退避したため孤立する。822日に芥川山城を長慶に明け渡し降伏し、長慶の弟・三好実休を頼り阿波国へ出立するが、以後消息不明となる。長慶は芥川山城を居城として三好氏の最盛期を築いた。

(引用尾張)

とのことです。

 

 

元の画像は、こちら↓をクリックすると、見ることが出来ます。

 

 

また、宝賀氏は、「3 三好氏の動向と系譜」wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/miyosi/miyosi2.htm の「阿波三好氏の初祖と久米氏」の項で、次のように書かれています。

(前略)

「芥川系図」には南北朝期ごろの左京亮義隆の子に左京亮茂宗、その子に久米三郎為永・同弾正忠成基の兄弟を記すから、この兄弟の末流に安芸守義広が位置づけられよう。三好・久米のどちらにも同族と伝える系図があるので、互いに同族であったことは否定し難いと思われる。

(後略 引用終わり)

 

久米義広については、拙ブログで度々見ていますが、三好長慶の弟・実休の舅です。

 

大歳神社の芝原明神についての想像 | 久米の子の部屋 (hama-sush-jp.pro) にも書きましたが、久米義広を自刃させた三好実休は、久米田で根来衆・根来右京に銃撃されて戦死しています。

 

(もしかしたら、根来寺もラインにはいるのだろうか? )と思い付き試してみると下のようになりました。

 

久米田寺と根来寺との繋がりを調べて見ましたが、根来寺の聖憲が久米田寺で修学したことしか分かりませんでした。

 

けれど、根来寺は南海道のすぐそばに建っているということから、難波京と和泉国府方面を結ぶ南海道が通っていた「遠里小野 旧名難波来目大井戸」と、実質的に繋がっていたことが分かります。

 

根来寺を成立させていった覚鑁について、覚鑁 – Wikipedia に書かれているから、ごく簡単にまとめてみます。

〇覚鑁は、真言宗がすっかり腐敗衰退してしまった現状を嘆き、自ら宗派の建て直しに打って出た。

〇覚鑁は、真言宗において、空海以外では唯一の仏教哲学「密厳浄土」思想を打ち立てた僧として高く評価されている。

 

(もしかしたら、覚鑁は、空海の久米への拘りを認識し、今回の拙記事で紹介したラインの存在も知っていて、根来を選んだのかも。)と妄想しています。

 

また、三好氏も、久米の繋がりを政治に生かそうと考えていたのかも、と想像しています。