前回のイザナギを祀ったのは矢口宿祢なのか? | 久米の子の部屋  で、 氣比神宮ー 大田神社(滋賀県高島市新旭町太田1468)ー三上山(滋賀県野洲市)のラインをご紹介しました。

 

もし、大伴氏と久米が共に暮らしたことを伝える大田神社が、氣比神宮と三上山を繋ぐラインの間に在るのが偶然ではなく意図されたものであれば、証拠といえるものがあるはずだと考え思い出したのが、久米勝足なる優婆塞(うばそく)の存在です。

 

劔神社|越前町 織田文化歴史館の「2 劔神社の神宮寺と神仏習合(1)初期神宮寺の成立と神仏習合」から引用します。

 神仏習合とはなにか。神も仏も同じものとして、神祇信仰と仏教を調和させようとする考えである。奈良時代ごろから広まると、平安時代にはさまざまな神と仏とを結びつける本地 垂迹(ほんちすいじゃく)が説かれ、神社にも仏像を安置するようになった。なかでも福井県は神仏習合が進んだ地で、初期神宮寺にかかる創建譚(たん)で知られる。一般的に神社の 境内に建てられた寺院が神宮寺なので、その存在は神仏が習合した証ともいえる。なかでも最古級とされるのが、越前国の気比(けひ)神宮寺である。

 『藤氏家伝』下 藤原武智麻呂伝の一節に、つぎのように記されている。霊亀元年(715)、藤原武智麻呂(むちまろ)の夢のなかに奇人があらわれ、神となって宿業久しきものが あるから、仏道に帰依し福業を修行したい旨を告げてきた。夢が覚めて奇人が、もし神であるならば、その証拠を示して欲しいと願ったところ、久米勝足なる優婆塞(うばそく)を、神 力によって高い木の枝の先に置いたので、神の仕業であることを悟った。この奇人が気比神であった。

 

 つまり、気比神は神の身を脱するために寺院の造立を請われたことが縁となり、武智麻呂は神宮寺を造立したことになる。創建年代について確証はないが、武智麻呂伝の成立した天平宝字4年(760)までに、由来譚が語られていたことは確かであり、越前の敦賀でいち早く神仏が混淆(こんこう)する徴候が認められたことを示している。境内からは奈良時代の瓦や 塔の心礎が発見されたというが、定かではない。

(後略 引用終わり)

 

「神となって宿業久しきものが あるから、仏道に帰依し福業を修行したい旨を告げてきた」という内容は、神道の信仰を大切にしている方々にとって、とても認めることができないでしょう。

 

しかしながら、久米姓に生まれた私としましては、久米勝足なる優婆塞が関わっている理由が気になりますので、少し調べてみることにしました。

 

すると、大神神社史料編修委員会 編修三輪流神道の研究 : 大神神社の神仏習合文化 - 国立国会図書館デジタルコレクションの24コマが見つかりましたので、引用します。

気比神宮については藤原武智麻呂が近江守であった頃、夢にこの神の託宣をうけ、優婆塞久米勝足の尽力があって神宮寺を建立しており、夙くより仏教の影響が及んでいた。(後略 引用終わり)

 

藤原武智麻呂が近江守のときに神宮寺を建立したということで、氣比神宮と繋がる近江の大田神社と三上山とのラインは、偶然ではないように思えてきました。

 

けれど、『藤氏家伝』によれば神宮寺の成立は霊亀元年(715年)ということで、藤原武智麻呂 - Wikipedia の「経歴」項によると、「和銅8年(715年)に武智麻呂が従四位上」程度の力しかないのです。

 

ならば、本当は父である不比等の意向だったのでしょうか。

御上神社 - Wikipedia の「歴史」の項に、次のように書かれています。

(前略)

養老2年(718年)3月15日に、藤原不比等が勅命によって遥拝所のあった榧木原と称された三上山麓の現在地に飛騨国の工匠を造営使として榧の木で社殿を造営し、遷座させたという。

(後略 引用終わり)

 

気比神宮寺の3年後に、御上神社が遷座されていることは、偶然ではないような気がします。

 

それから、榧(かや)木原が気になりました。

かや・・・伽耶。と連想しました。

 

近江で伽耶との関連を記す場所を知りたくて検索をすると、39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社) - 近江史を歩く が見つかり、安羅神社の存在を知ることができました。

「簡潔にするため、参考文献等は省略しています」とのことですし、引用は控えて、おかげで見付けることが出来たラインをご紹介します。

 

 

「滋賀県草津市に2つの安羅神社がある」とのことで、グーグルマップで見てみると、天日槍を祭神とする安羅神社(滋賀県草津市穴村町338−1)のほうが、三上山、御上神社と東西に約8kmのラインを成すことが分かりました。

こちらの安羅神社の鎮座地である穴村は、天日槍が一時済んだ吾名邑(あなむら)の地に当たるとする説があるのですね。

 

グーグルマップで分かった経緯度を地図に複数住所を一括表示 | しるしーず に入れてみたのですが、三上山の三角点(?)と①のマーカーは少しずれてしまいました。

けれど、穴村の安羅神社と御上神社のポインターの先を繋いでみると、三上山の三角点(?)に近くなりました。

 

1,三上山、滋賀県野洲市三上
  35.049919713070075, 136.0380733836625
2,御上神社、 滋賀県野洲市三上838
  35.04999272324778, 136.02753632555144
3,安羅神社、 滋賀県草津市穴村町338−1
  35.048104867707266, 135.94933853337608

 

 

 

 

気比大神 – 國學院大學 古典文化学事業 によると、「気比大神の正体について、神功皇后の外祖に当たる、新羅国王の子の天之日矛だとする説もあり」ということですし、氣比神宮ー 大田神社ー三上山のラインと考え合わすと意図されているラインであるように感じますが、三上山(近江富士)を東に仰ぐ位置に建てたために、並んでいることも考えられます。

 

偶然ではないと思えるためには、このラインの並びに何かを見付ける必要があるなと思いながら地図を眺めていると、岡山県津山市が目に入りました。

もしかしたら、「久米の佐良山」辺り?と思ったら当たりだったようです。


 

何故、「久米の佐良山」にあたりを付けたかと申しますと、大田神社の本殿に現在は合祀されている天津久米命は、美作国佐良山から久米一族が来住し祀ったと伝わっているからです。

 

「久米の佐良山」が具体的にどの山を指すかについては、古来いくつかの説が対立しているのだそうです。

 

そこで、「佐良山 神社」で検索してみて見つけたのが、佐良神社でした。

 

グーグルマップで分かった三上山の北緯は、  35.049919713070075

佐良神社( 岡山県津山市一方636−1)は、  35.05092777237245    です。けっこう近い数値ですよね。

 

 

佐良神社|岡山県の神社を探す|岡山県神社庁 には、次のように書かれています。

由緒
 本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。

(後略 引用終わり)

 

和気氏祖神とは、十九柱の御祭神の最初に記される佐波良神のことだろうか? と思い検索してみると、「博物館だより No.12 1994.9 - 津山郷土博物館」のpdfを見付けることができました。
2~3コマは、「『久米の佐良山』考」で、3コマから引用します。

(前略)

すなわち、天長3年(826)僧真体が亡妹和気朝臣のために美作国作良荘他を京都神護寺に寄進している(『続遍照発揮性霊集補闕鋤』8)ことから、佐良荘がもと和気氏の荘園であったことが知られる。そして、この「佐良」の地名を和気清麻呂の高祖父佐波良にちなむとするのである。
 佐波良は天平5年(733)生まれの清麻呂の4世の祖であり、7世紀後半頃の生まれと復元される。上記の説によれば、佐良の地名は8世紀以後の比較的新しいものとなるが、859年の大賞祭に奏上された「久米の佐良山」がそのように新しい地名とは考えにくいのではあるまいか。和気氏が美作と密接な関係にあることは事実であるが、そのことから美作の特定の地名を和気氏の人名と結びつけることは無理である。

(後略 引用終わり)

 

「佐良」の地名を、和気氏の人名と結びつけなくてよいとしても、佐良神社と久米氏を結びつけることはできないかもしれません。

けれど、祭神を、久米都彦の後裔と称する佐良良連氏であろうという考察を見付けました。

 

段煕麟 氏著渡来人の遺跡を歩く 2 (山陽編) (ロッコウブックス) - 国立国会図書館デジタルコレクション の「美作国の鍛冶師(百済氏)と佐良神社」から、まず81 コマから引用します。

 国鉄津山線の皿山駅は山里の小さな駅である。この東部一帯は『和名抄』に記す久米郡長岡郷で、 『地名辞書』に「いま佐良山村、福岡村、豊岡村などなるべし」と記され、ほぼ今日の津山市南部 に比定される。
 皿山は佐良山の借字であり、『地名辞書』によれば、佐良山は佐波良山の訛字で、佐波良は河内国讃良郡 (北河内郡に属す)の讃良と同源であるという。この讃良郡は『姓氏録』の「河内国諸蕃」に「佐良良連は百済国人の久米都彦の後なり」と記されているように、百済人の定着したところである。現在の津山市皿は河内国讃良郡から移住してきた百済人の本拠地だったであろう。
(後略 引用終わり)

 

次に82コマから引用します。

(前略)

津山市から岡山市へ通ずる国道五三号線沿いに皿山がそびえ、その麓の平福に佐良神社が鎮座している。祭神はいうまでもなくこの地域を開拓した百済系の佐良良連氏であろう。

(後略 引用終わり)

 

段煕麟 氏が出典としている 『地名辞書』は、吉田東伍 氏著大日本地名辞書 上巻 二版 - 国立国会図書館デジタルコレクション のようです。

段煕麟 氏が書く「佐波良は河内国讃良郡 (北河内郡に属す)の讃良と同源であるという。」の箇所が気になり検索したのですが、483 コマに「佐波良、本河内国の讃良郡と同源の語なるへし」とあります。…微妙に異なっているような。

 

まあ、三上山麓が榧(かや)木原と称されたことから伽耶を連想する私も、おかしいのでしょうから。

伽耶と百済は別の国ですし。

 

けれど、「任那を百済につけましょう」といったと伝わる中臣国子は、母・那爾毛古娘が伊予来目部小楯(※山部連の祖)の孫なのです。

任那 - Wikipedia によると、「一般的に伽耶と同一、または重複する地域を指す用語として用いられる」とのことです。

 

那爾毛古娘は、中臣御食子の母でもあります。

つまり、鎌足の祖母であり、藤原不比等・武智麻呂親子にとっても先祖ということになります。

 

それから、藤原不比等と讃良を繋げるものとして、鸕野讚良が諱である持統天皇の存在があります。

 

持統天皇は、讃良郡と縁が深い天皇と考えられるということを48. 持統天皇と四條畷 - 文化財・史跡 - 四條畷市ホームページ(文化財課) などで知りましたので、国立国会図書館デジタルコレクションで書物を探すと、段煕麟 氏著 日本史に生きた渡来人たち (しょうらい社人物双書 ; 1) - 国立国会図書館デジタルコレクション が見つかりました。

59~60 コマから引用します。

(前略)

『書紀』の天武天皇一二年(六八四) 一〇月条に、「沙羅羅の馬飼造や菟野(うの)の馬飼造らに連という姓をたまわった」と記されているが、この沙羅羅は北河内郡の讃良(更荒・佐良良) 郡のことで、菟野(鸛鷀野・宇努)は讃良郡にはいる生駒山中の菟野村または馬飼里または 牧村ともよばれたところである。ここは「姓氏録」の「未定雑姓」に記された新羅系の宇努連氏や 百済系の宇努造氏が定住したところであって、この宇努連氏や宇努造氏が馬飼造であったかもしれない。造(みやつこ)というのは、地方豪族が朝廷からたまわった姓であるから、馬飼の社会的地位が臆測される。昭和五八年(一九八三)五月七日付読売新聞によると、更良岡山遺跡は五世紀末ごろの遺跡で、 人物埴輪が出土したことが特徴であり、渡来系豪族の墳墓であろうと記され、 讃良郡に繁栄した渡来人の様相を知ることができる。
 ちなみに、天智天皇の第二皇女の名は鸛野讃良皇女といい、のちの持続女帝であるが、名前から幼時、讚良郡鶴野村で乳母に養育されただろうと思われ、その乳母はどんな女性であっただろうか、とロマンをかきたてられる。百済が滅亡寸前の危機にさいし、天智天皇が兵馬兵糧を救援して白村江の戦いで敗北した史実を考えると、この乳母は、『姓氏録』の「河内国諸蕃」に百済系として記された佐良良連氏か、前記の宇努造氏の息女ではないか、と推測されるのである。
 また、京都市東山区山階町に山階寺跡がある。この山寺は藤原鎌足が創建した氏寺であって、のちその子の不比等が平城京に移して興福寺(厩坂寺)といったのである。

(後略 引用終わり)

 

厩坂寺といえば、久米寺の位置から想像する藤原氏の思い | 久米の子の部屋  などで書いてきましたが、「現在は久米寺 が厩坂寺の最有力候補」ということを、岡田雅彦氏と木村理恵氏とによる「考古學論攷 第48号69-87頁,2025年3月 伝四条遺跡内出土遺物についての考察」の16コマで確認しました。

 

 久米寺 - Wikipediaでも、  2019年10月12日 (土) 05:34から、「創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が提唱されていたが、境内で出土した瓦と同じ木型でつくられた瓦が藤原宮と興福寺から出土していることなどから、興福寺前身寺院の厩坂寺に比定する学説が有力である。」と書かれていますね。

 

けれども、厩坂寺が久米寺になった理由についての考察には、まだ出会っていません。

 

何か手がかりは無いだろうか? と思い、前出の日本史に生きた渡来人たち (しょうらい社人物双書 ; 1) - 国立国会図書館デジタルコレクション で「久米」を検索し、百済王神社の付近に、「宇久米塚」があることを21コマで知りました。

20コマの最終行~21コマの一部を引用します。

(前略)

 なお、前掲書では、『考古学雑誌』第一巻第一号に載った岩井武俊氏の論文を紹介している。それによると、百済王神社の付近に群集墳が数多くあって、中宮に三六基、その付近に約三0基もあるが、伝承では、姫塚・宇久米塚・梅塚のほかに、塞の神あるいは瘡神と称する墳丘が三六ヵ所あり、それは百済王の侍者三六人の墳墓であると記されているが、これは一三あるいは三六という数に因縁を見出そうとする民間信仰にもとづいているかもしれないとしている。
(後略 引用終わり)

「前掲書」とは、『牧方市史』のことで、枚方市史 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション の194コマに「宇久米塚」に関する記述が見つかりました。

 

私にとって、百済王に対する関心は、今までは次の二点程度でした。

〇百済の武寧王は、桓武天皇(諱は山部)の母方の先祖

〇百済王敬福は、東大寺大仏に必要な黄金を貢上した

 

ところが、あれこれ検索したことで、次の論考と出会いました。

(前略)

生前から倭国とゆかりがあったということになるが、この伝承そのものの確実性はともかくとして、継体天皇が即位以前から百済と交流・交渉を持っていたのは事実としてよかろう。まさに即位以前から「百済王斯麻(武寧王)と交渉を行っていたことになる」のである。

(後略 引用終わり)

 

そして、井上満郎氏著「継体天皇と河内馬飼首荒籠 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター」のPDFの6コマを読むことで、次のラインは意図されたものに思えてきました。

 

1,百済王神社、 大阪府枚方市中宮西之町1−68
  34.81538974052382, 135.66030112447106
2,継体天皇樟葉宮跡伝承地(石碑)、〒573-1104 大阪府枚方市楠葉丘2丁目19−1
  34.86819084272787, 135.69037877693944
3,氣比神宮、 福井県敦賀市曙町11−68
  35.654914262533204, 136.0747256936507
4,久米田神社、〒910-0331 福井県坂井市丸岡町下久米田1−1
  36.11531540048696, 136.30835682995422 
5,久麻加夫都阿良加志比古神社、 石川県七尾市中島町宮前ホ64
  37.13046165219507, 136.83378796259694
 

分かりにくいのですが、②の継体天皇樟葉宮跡伝承地(石碑)もポインターの先で繋がっています。

 

朝鮮から渡来した神と久米との関係についての妄想 | 久米の子の部屋 では、久麻加夫都阿良加志比古神社ー久米田神社ー 
氣比神宮のライン、そして、氣比神宮ー龍臥山 隆池院 久米田寺ー三穂の石室(久米の石室)のラインが偶然とは思えない程度の精度で見られ、この2つも繋がっているといえなくもないレベルであることをご紹介しました。

 

また、大阪の「くめ」地名が繋げるラインについて | 久米の子の部屋  では、氣比神宮ー高槻城跡(久米路山)ー産湯稲荷神社(あくめ山)ー久米田寺ー三穂の石室(久米の石室)がポインターの先で繋がっている地図をご紹介しました。

 

今回、百済王神社と継体天皇樟葉宮跡伝承地(石碑)も繋がることに気づいた理由は、久米田神社は継体天皇が建てたとも伝えられているからです。

7.4 人物 | ふくいの川 | 福井河川国道事務所 から引用します。

久米田神社(丸岡町)
男大迹王は、振媛の養育のもとにこの地で成人され、高向郷の豪家から娘を娶り妃とした。男大迹王は、やがて都に上り帝位についたが、妃はこの地にとどまりみ子を生んだ。王は、大伴金村を使わして妃を迎えようとした。しかし、妃は産後のひだちが悪く、亡くなられた後であった。そこで、妃とお子をこの地に葬り、2回もこの地に使いした大伴金村を祀って久米田神社としたという。
(引用終わり) 

 

即位以前から百済王斯麻と交渉を行っていたと考えられる継体天皇は、大伴金村を祀って久米田神社としたという。

 

東大寺大仏に必要な黄金を百済王敬福が貢上した際に、大伴家持は「大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負ひ持ちて…」と詠んでいる。

 

「河内国諸蕃」に「佐良良連は百済国人の久米都彦の後なり」と記され、

阿加志毘古命、押志岐毘古命と父として彦久米宇志命の名が波多門部造の系譜に記されている。

 

阿加志毘古命、押志岐毘古命、彦久米宇志命の名は、朝鮮から渡来した神と久米との関係についての妄想 | 久米の子の部屋 に書いたように、久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神である久麻加夫都阿良加志比古神・都奴加阿良斯止(別名:于斯岐阿利叱智干岐)と似ているように思います。

 

 

似ているといえば、NHK「連続テレビ小説」『虎に翼』を見ていて、明律大学の仲間たちに、よね(米?)、 梅子、久保田先輩と、久米と共通点のある名前が多いように感じていたのですが、ドラマの登場人物のモデルになったとみられる久米愛さんがいらしたのですね。

日本の「創造力」 : 近代・現代を開花させた四七〇人 第14巻 (復興と繁栄への軌跡) - 国立国会図書館デジタルコレクション の190コマ~「女性法曹―日本初の女性弁護士となった久米愛」を見付けましたので、貼っておきます。
 
 
もちろん、名前が似ているだけでは関係があるとはいえませんので、拙稿を閉じるために、太田亮氏著 『神道史』国史講座 [第3巻] - 国立国会図書館デジタルコレクション の31コマから引用します。

(前略)

即ち新羅では山の神、我国で云へば大山津見神を大いに尊信する處が伊豫風土記には此の大山津見神を新羅ではないが、その隣りの百済から渡つて来られた神として居る、其處に何かの理由があるのでなからうか。偶然としにくい故である。殊に姓氏録に
 山田造 新羅國天佐疑利命之後也
と見えて居るが、天佐疑利と云ふ神は古事記に天之狭霧神、國之狭霧神として此の大山津見神の子として居るのである。此等から考へると、山部即ち山津見神を崇敬した氏族は韓土と縁故があるのかも知れぬ。此の神は攝津三鳥、 伊豆三島など各地に祀られて居るが、根原の社は恐らく伊豫の大三嶋神社であらう。猶ほ此の山部の民は久米部とも、 熊襲とも關係があるらしいが、同じく姓氏録河内諸藩百済の部に佐良連を載せて、百濟國人久米都彦より出づとして居る。

(後略 引用終わり)

 

太田亮 氏の著書日本古代史新研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション には「第八章 久米部と狗奴国」があり、 166コマに、上の引用文より丁寧に書かれています。