和田家文書の中から、面白いと思ったものを私なりに現代語訳して紹介しています。
慶長18年(1613年)、伊達政宗が造らせた遣欧船サンフアンバブチスタ号は3ヶ月かけてスペイン領のアカプルコ(現在はメキシコ)に到着しました。そこで船長の山口与市はメンバーを30人に絞り、セビリアを経由してマドリードへ向かいました。
‥の続きです。
山口与市ら30人は慶長20年1月2日、スペイン国王フエリッペ3世に謁見し伊達政宗の書簡を奉呈しました。
更に、スペイン船に乗ってパルセロナからローマに向かい、教皇の謁見を許され、政宗の書状を奉呈しました。
この間、30人に入らなかった火内彦次郎はサンフアンデウルフ港で別れ、彼らの帰りを待つ間に秋田実季からの密命 パナマ地境の視察にむかいました。
テオテワカンやテノチテイトラン、更に南東のパレンケ及びコバンやテイカル、更に大密林の中のチチエン・イツアー、広大な石造りの古代神殿遺跡を視察しました。
山口与一が戻ると、船はアカプルコからルソンに向かい、長崎に寄って千臺(仙台)に着いた時には7年の歳月が経っていました。
彼らのヨーロッパ訪問の旅は、元和6年(1620年)に至る大航海でありました。
寛永元年(1624年)2月1日 留守春光
火内彦次郎アカプルコ報告書
秋田城之介家臣の火内彦次郎は、古代マヤ王史観書12巻を秋田実季に献上しましたが、三春大火で天明の年に焼失してしまいました。今残っているのは書き写したものだけです。
石塔山荒覇吐社に残るものも虫食いで読みにくくなってしまいました。
知られざる東海の大国マヤ王国。そこに信じられないほどの大遺跡を作ったのは、紅毛人ではなく山靼に由来する民族だという事です。
火内彦次郎の記したものによれば、
「古代マヤ族王の歴史は、巨大な石を積んで造った石塔に代々の史伝を刻み、天運を測り、古代には日輪の生滅と生誕を予言したという。
しかしその信仰は尋常ではなく、妖気・迷信が多いものだった。
人を生贄とし、生きた娘の心臓を供物として捧げるなどという邪道なものだった。人々は古来からこの迷信に支配され、苦労して大石段を造ったようだが、人の生命を軽んじてはどんな美しい遺跡を造ったとしても人々の反感を招く。
今では大密林に残骸だけが空しく残り、文明は絶えたと伝えられている。」とあります。
その他、伊達家臣留守晴光の聞き書きには次のようにありました。
火内彦次郎は藩外臣(秋田)のためにローマ訪問から外れ、アカプルコに残る間、パナマ地峡東西のマヤ遺跡を巡脚したそうだ。
湖島のテオテワカン、東方のチチェン・イツアという日輪神の石塔に登り、マヤ王即ちアステカ王の二大遺跡で見たのは、正常な心理を失った行き過ぎた信仰だった。人の生贄、生きた心臓を捧げるなど、人の皮をはいで神の石像に着せる信仰などあるものか❗️そんなもの書くのもおぞましい❗️
と、彦次郎はこれらを報告書に書けずにいました。
文政5年(1822年)6月1日 和田長三郎
(和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六より)
「アカプルコ」って、ほら松任谷由美の歌にあったリゾートのことですよね❓「ホリデーインアカプルコ
」思い出してしまって。
武士とアカプルコって凄いギャップ‥うぷぷ
って思っちゃったんです💦
和田家文書の中にこのタイトルを見つけて一発で心惹かれました💖
読みすすめてみたらそんな浮かれたものではなかったんですけどね。
火内彦次郎の出自は秋田県北の「比内」なのでしょうか。本人か先祖は比内出身だったのかもしれませんね。
彦次郎が見て回った古代遺跡。
ティオティワカン(メキシコ)
※画像お借りしました。
テノチティトラン(メキシコ) 想像図
※画像お借りしました。
wikiによると、移住してきたアステカ人が1325年に干拓によって作った都市で、1520年代にはスペインのコルテスによって征服破壊されたそうです。そしてその廃墟の上に今のメキシコシティが作られた、と。
彦次郎が訪れた1620年頃には、まだ廃墟が見られたのかもしれませんね。
パレンケ(メキシコ)
※画像お借りしました。
コパン(ホンジュラス)
※画像お借りしました。
ティカル(グアテマラ)
※画像お借りしました。
チェチェンイッツア(メキシコ)
※画像お借りしました。
そしてマヤ王国の大遺跡を築きあげたのは、山靼由来の民族だと伝わっていたようです。
山靼からマヤ。それってどういうルートだったのでしょうね❓❓
もう少し続きます。
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