和田家文書の中から面白いと思ったものを紹介しています。今回は「平将門」に関する記述です。


※原文では分かりにくいと思うので私なりに現代語訳をしています。間違ってる部分もあるかと思いますが

どうかご容赦下さい。


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平將門①


下総国豊田郷。

桓武天皇の皇子は自らを平高望(たいらのたかもち)と名乗り、奥州の安倍日本将軍頻良

(あべのひのもとしょうぐんよりよし)の勢力を防ぐために坂東(関東)に永住しました。


その末裔である

太郎國香(くにか)は常陸を、

次郎良兼(よしかね)は上総を、

三郎良將(よしまさ)は武蔵を、

四郎良正(よしまさ)は下総を、

それぞれ治めていました。



そして武蔵の良將の長男として平將門(まさかど)は生まれ、父を継ぎ武蔵国を治めていました。


武蔵は新田の耕作が豊かで、叔父たちの治める常陸、上総、下総からも移り来るものたちがいました。

將門は武家も農民も問わず誰でも受け入れたので「我らの家臣を奪うとは💢」と常陸の國香は怒り仲間と謀って935年 將門討伐の軍を起こします。


しかし、將門のもとには奥州の安倍頻良からの密告があったのです。將門は事前に軍備を怠りなく伏兵を配置して、國香の軍を撹乱しました。そして敗走する國香軍を追って常陸を攻めると國香は自刃し、その仲間も討死しました。

さらに國香に兵馬を与えたとして下総の良正をも攻めたのでした。


翌年、良正、良兼、國香の子平貞盛(たいらのさだもり)は將門を逆襲しようとしましたが奥州安倍頻良の多大な軍資と援兵を前に国府(国の役所が置かれた都市)へと逃げ込んだのです。

そして国府の建物を陣で何重にも囲みそこから西へ逃げ出し、朝廷に「平将門が反乱を起こした」と訴えました。


その訴えに御門(天皇)は『將門は敵である安倍頻良と通じているのか。それならば敵として軍を差し向けるべきか❓しかし、西海では藤原純友が反乱を起こしそうだと聞く。

今 將門を敵にするのは得策ではない。』と考え、將門を罰しないよう指示しました。その後、將門が上京した際も検非違使庁(警察的役割)の裁きに問われませんでした。


(続きます)

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