つづきです。
「青森県になぜ日本中央⁉️」の4話目です。
坂上田村麻呂が亡くなった後、
征夷大将軍となって
蝦夷征討にやってきた
文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)。
その名はあまり知られていませんが、
青森まで来たであろう記録があるのは
この文室綿麻呂です。
日本後記という平安時代の書物に、
綿麻呂の奥州征夷の状況が記されています。
811年7月29日の項です。
「出羽の都留岐(北秋田蝦夷のリーダー)が
こう言っている。
『自分は荷薩体(岩手県北部)の
伊加古(蝦夷のリーダー)らと
長く仇敵関係である。
その伊加古らが都母村(坪村)で
兵を訓練して自分たちを討とうとしている。
兵糧の支給を頼む。
その上で官軍の兵の先頭にたって
伊加古らを襲撃したい』と。
賊をもって賊を討つのは
戦をする国としては利益である。
米100石を支給して励ましたいと思う。」
そしてこの要請は受け入れられたようです。
811年て
『鳴くよ(794年)ウグイス平安京』
の7年後か。
『賊をもって賊を討つ』
蝦夷同士で戦わせるなんて
やな感じだわー💧
自分で行けー✊💢
しかし、
この伊加古率いる蝦夷軍と
文室綿麻呂率いる官軍の戦いについて
詳しい戦状は語られていません。
最終的には勝ったと報告されているのに
その後、倭国の役所が置かれることもなく
実質旧来通りだったようです。
もしかしたらですが、
実際には大きな武力衝突はなかったのかも⁉️
沢山の働き手が死んでしまうのは
互いにとって利益とは言えず、
文室綿麻呂と伊加古の間で
『停戦協定』みたいなものが
あったのかもしれません。
お借りしました。あくまでイメージです💧
「ここに『日本中央』と記す。
この碑から南へは来ないでくれ。
そしたら我々も攻めない。
これで終わりにしよう。」
と言って文室綿麻呂が記したのが
この「日本中央の碑」ではなかったかと。
その後、文室綿麻呂の戦果報告は
「全部やっつけた❗️
長年の戦いに終止符を打つことができた。
暫くは兵を休め農業に専念させてほしい。
疲れ切った兵達の税金を免除してほしい。
念の為、防衛兵は少し残して置くべきだ。」
などとしています。
これによって文室綿麻呂以下軍首脳は
朝廷から位を授かっています。
文室綿麻呂さん、上手くやったね😁
全て倭国から連れてくるのではなく、
道々兵を募りながら戦地に向かったそうです。
賊をもって賊を討つとは
まさにその通りで、
蝦夷に「位を授けるから」とか
「食料を支給するから」とか
恩賞を与えて取り込むのでしょうね。
今で言えばヘッドハンティングですよね。
「今のサラリーの倍出すよ」
と言われたら‥ね❓
なんか現代と変わらん構造に見えてきた🧐
参考資料
「文選つぼのいしぶみ」東北町役場発行
ネット 天間林村史 古代
長くなったので今日はこの辺で。
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