本書の著者は私より6歳年上だが、ほぼ同世代と言ってよいだろう。
だから本章で書かれているアメリカ映画「蠅男の恐怖」やベトベトした「蝿取り紙」の思い出は大いに共感できる。
私が大学を卒業して新採用教員として採用された小学校は銚子市立船木小学校といって、昭和54年当時(1979)は徒歩数分の国道まで出ると今と変わらない町並みはあるが、学校周辺は一面田んぼや畑で、遠くまで見渡せた。
暑くなり始めたちょうど今頃の季節、暑いというより熱い季節で、木造校舎の1階にあった教室は窓を開け放つことなくしては暑くて死にそうだった。
おまけに田畑から大量の蝿が窓から教室の中に入ってきて、授業どころではなかった。男子も女子もノートや下敷き、定規で蝿を追いかけ回し、いいかげんにしろ〜・なんとかしてくれ〜と蝿に向かって叫んでいた。
この窮状を橋頭に訴えると、理科の専門家の教頭は「学級費で蝿取り紙を買いなさい。10本ほどを教室の天井からぶら下げるのだ」と教えてくれた。
早速実行に移すと、10本の蝿取り紙は数十分で真っ黒になった。
たしか4回ほど蝿取り紙を取り替えたと思う。学級費で蝿取り紙を買うことを、学級だよりで保護者に訴え、了解を得た。
半世紀近い昔の思い出だ。
Geminiに数片の読書メモを渡し、「文学的」にあらすじを書くように言ったら、本当に文学的なあらすじができた。
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ご提示いただいた読書メモをもとに、「赤い蝿を弔うー蝿の話」のあらすじを文学的な情景が浮かぶような文章に仕立てました。
あらすじ:『赤い蝿を弔うー蝿の話』
およそ二百年の昔。賑わう京都の街角に、錺屋(かざりや)を営む久兵衛という商人がいた。その店に、玉という名の下女が奉公に上がっていた。玉は、泥中に咲く蓮華のように素直で、実によく働く娘であり、久兵衛夫婦も我が子のように目をかけ、慈しんでいた。
しかし、玉の身なりはいつも一際みすぼらしく、質素そのものであった。見かねた久兵衛がその訳をそっと尋ねると、娘は健気にもこう答えた。「生き別れた両親の位牌を作り、お寺で永代の供養を営みたい。そのために、一文一文を大切に蓄えているのです」と。 やがて、玉の涙ぐましい努力は実を結び、銀百匁(もんめ)という大金を貯めるに至る。彼女はそのうちの七十匁を投じて念願だった両親の法要を厳かに営み、残された三十匁の銀を、信頼する女将さんの手元へと大切に預けたのであった。
だが、運命は過酷であった。両親への孝養を果たし終えた安堵からか、間もなくして玉は重い病に伏し、そのまま帰らぬ人となってしまった。
悲しみに暮れる久兵衛の家に、それから十日ほどが過ぎた頃、一匹の大きな蝿が迷い込んできた。 追い払っても、窓の隙間から、あるいは戸口から、羽音を響かせて幾度となく舞い戻ってくる。不審に思った久兵衛は、その蝿の体に小さな目印をつけ、京の町から遥か遠く離れた野へと解き放った。
しかし、驚くべきことに、二日の旅路を経て、その目印のある蝿は再び久兵衛夫婦の元へと還ってきたのである。
「ああ、これは玉だ。あの子が戻ってきたのだ」
夫婦は確信した。すると蝿はポトリと落ちて死んだ。預かったままになっていた三十匁の銀は、主人の懐を潤すためのものではなく、逝った娘自身の魂が求めていたものだったのだ。久兵衛夫婦はすぐさまその銀を携えて寺へと赴き、玉の魂を懇ろに供養した。そして、愛おしき娘の化身であった蝿の亡骸もまた、静かな境内に葬り、小さな塔婆を立ててその冥福を祈った。
それは、死してなお、受けた恩と愛着を忘れることのなかった、哀しくも美しい魂の記憶である。