あらすじは書かないが、ネットでも調べられるだろうから、ブログには書かない。
筑摩書房もずいぶんと味のある本を出版するものだと思った。副題の「ラフカディオ・ハーンを読みなおす」というのは本当だと思う。
以下、筆者・春日武彦(以下、敬称略)の記述で、これは!と思うところを抜き出してみる。
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ハーンがつけた題名にしては、あからさまというか「どぎつい」タイトルではないだろうか。
わたしが嫌だと思っているのは何か。 村人たちが、遺体も供物も夜のうちにすっかり消え失せてしまっていることに平然としている──そこなのである。「やはり」としか思っていない。
言い伝えになっているということは、おそらく何十年も前からこのような調子なのだろう。それが常態化している。葬儀の形として、村の生活に組み入れられている。 考えてみれば、弔いというのは骨の折れるプロセスである。土葬にせよ火葬にせよ、野辺の送りは大変な手間暇が掛かる。だが現状においては、物の怪が密かに登場してすべてを食い尽くしてくれる。
なるほど弔いの煩わしさは、喪の仕事として遺族の心の整理に寄与してくれるだろう。でもその代わり、村人全員が一晩のあいだ、隣村に移動して夜を過ごすという大掛かりなオペレーションがある。その非日常性によってある種の癒やしが発動されるだろう。 つまり、食人鬼の存在は、いつしか村の弔いのありようにしっかりと組み込まれている。それはそれで、なかなか便利至極なシステムとして機能している。
これを現代社会に 敷衍 してみればどうか。子どもへの虐待が常態化している家庭であるとか、近親相姦とか、共依存であるとか、そのように歪んだありようが破綻もせずに延々と営まれている構図と通底しているようにさえ思われてきて、げんなりするの
死体の顔に御自分の顔をくっつけ、死体の手に御自分の手を組んで、幾日かおすごしになられましたが、ついに気が狂って、その子が生きていたときとおなじようなたわむれをされながら、その肉が 腐爛するのをおしんで肉を食い骨をしゃぶって、、とうとうすっかり食いつくしてしまったのです。寺にいた人々も、『住職はついに鬼になってしまわれた』とおどろきあわてて寺を逃げ出してしまいましたが、その後は、住職は夜毎夜ごと里に下って里人を襲ってはひどく驚かし、あるときは墓をあばいてまだ死んでまもない屍肉をくらうというありさまで、実際鬼というものは、昔ばなしには聞いてもいましたが、まのあたり住職がその鬼になられたのをこの目でみたのでございます。
(『改訂 雨月物語』鵜月洋訳注、角川ソフィア文庫2006)
わたしが読んだ子供向けリライト版では、腐った肉を住職がちゅうちゅう数といった文章があったと覚えている。
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ラフカディオ・ハーンの怪談は、怖いけれども、どこか美しく澄んでいる文章だが、雨月物語のように、おどろおどろしくはないという感想を持った。
