2015年7月19日のリブログ。
--
良寛さんが、乙子(おとこ)祠畔(※)の草庵から、島崎村の木村家の別舎に移り住んだのは文政九年(一八二六)の秋、六十九才のときでしたが、それから間もない初冬のある日、この庵室を訪れた一人の品のよい老人がありました。
彼は隣り村の金持ちで、是非良寛さんに教えを受けたいことがあって、とぼとぼと、この庵室へやってきたのでした。
初対面の彼は、良寛さんに丁寧な挨拶(あいさつ)をしてから、静かな口調で問いかけました。
「あなたさまは、深く悟りを開かれたお方だと聞いておりますが、長生きの方法をご存じでござりましょうなあ」
「いやあ、悟りとか迷いとか、そんなことはどうでもよいことじゃが、長生きの方法というなら、多少は心得ているつもりじゃがのう」
それを聞いた老人は、目を輝かせながら、言葉をつづけました。
「わたしは、おかげさまで、財産があり、子どもや孫どもにも恵まれておりますんで、この上なんの欲もござりませんが、ただ一つ、自分の力では叶(かな)わぬことがござります」
「ふーん、それはまた、どういうことじゃろうのう」
良寛さんは、にこにこしながら、尋ねてやりました。
「実は、わたし今、八十でござりますが、なんとしても、百まで生きたいと思うのでござります。どうぞ、その方法をお教えくださりませ」
「それは、お易(やす)いご注文じゃ、ところでお前さんは、百まで生きたら、その時にまた、もう暫(しばら)く生きたいと考えるに違いないと思うのじゃが、どうじゃろうかのう」
良寛さんは、相変らずにこにこしながら言いますと、老人は、恥ずかしそうに首を振りながら答えました。
「そ、そんなことはござりません。百までも生きる人は、滅多にないのですから、それ以上の欲は、決して申しません」
「よかった、よかった。それならお前さんは、今、もう百まで生きたと思えばよいのじゃ。そう思って暮らせば、一日生きると、一日儲(もう)かったことになる。一年生きると、一年お得をしたことになる。こんなうまいことはないではないか。これが百まで生きる妙法というものじゃ」
このように答えた良寛さんは、大きく笑いました。
老人は、良寛さんの妙法を聞くと、急に心が明るくなる思いがしました。そして、今更のように自分の欲の深さを恥じると共に、それからの日々を、本当に楽しく過ごすことが出来るようになったということです。
--ここまで
「今、もう百まで生きたと思えばよい」という良寛和尚の言葉は、名言中の名言ではないでしょうか。
「そんなに欲をかいて長生きしようと思っても、人の寿命は限りがあるのじゃよ。限りある寿命の中で明るく精一杯生きるのじゃ」ということでしょうか。こんなふうに良寛和尚は言いたかったのかもしれません。
良寛和尚に「百まで生きたら、その時にまた、もう暫く生きたいと考えるに違いないと思うのじゃが」と問われたら、誰もが心の中では「はい、そのとおり」と思うのではないでしょうか。
しかし、良寛和尚に「一日生きると、一日儲かったことになる」「一年生きると、一年お得をしたことになる」「こんなうまいことはないではないか」と言われれば、世人は「その気」になって「納得」してしまうのでしょうね。
次回のブログでは、著者 植野明磧先生の解題を書かせていただきます。
(※)逸話の冒頭「乙子(おとこ)祠畔の草庵」の「祠畔」について
乙子については、「月と泥棒」「何でも食う」「勘当された周蔵」の逸話に「乙子神社の境内」という文章が登場していますから、乙子神社を指していることは間違いありません。良寛和尚は五合庵から乙子神社の境内に、居を移していたのです。
「祠畔」という言葉は初めて目にする言葉でした。おそらく「シハン」あるいは「ジハン」と読むのだと思います。なお、『良寛さん』の原典(柏樹社)と新装普及版(同)では「祠」の「示」が「ネ」になっている漢字を当てていますが、パソコンでは変換できません。よって、ここでは、現代教養文庫版(社会思想社)の「祠」を使いました。
「祠」は「ほこら、やしろ」の意味で、読みは「シ」または「ジ」で、「畔」は「湖畔」などと使うように「境目、小高くした所」の意味で、読みは「ハン」です。
これらを手がかりに辞書を探したのですが、「祠畔」という熟語は見つかりませんでしたが、それぞれの漢字の意味から推測して、「乙子神社の社殿近くの草庵」と解釈しました。
明磧先生が名著『良寛さん』を執筆していらっしゃったときには、「祠畔」という言葉は、文章の中で使われる言葉として生きていたのかもしれません。
--
「乙子祠畔」の読み方については、2015年8月15日のブログで解決した旨、報告している。正解は「乙子祠畔=おとごし+はん」。