2015年10月9日のブログをリブログします。

私の教師としての原点となった出来事を思い出させてくれた内容です。また、こにいさんとのご縁ができたブログです。

 

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 名著『良寛さん』の巻末にある著者 植野明磧先生の自伝「良寛さんを求めて」を読んでいます。この読み物を紹介し、併せて読後感を書かせていただきます。本文は太字にして適宜改行を加えました。


 ところが、こんな事情で教員になったわたしですのに、二年ほど勤めている間に、なんだかこの仕事が自分の性分に似合っているように思えてきたのです。子どもは自分に対して誠実であり、自分を誤魔ごまかしません。虚飾や要領を用いません。このような人間における自然性に接して、わたしはその美しさに心を打たれました。
 けれども、また別な角度から、更に強くわたしの心を動かしたのは、この一見天真らんまんにみえる、その子どもたちの内心に、子供としての深い悩みや、恐怖や、不満や、憤りや、切実な願いが秘められているのを知ったことです。
 親のない子、貧困家庭の子、身体障害の子、知能の劣る子、不和家庭の子、仲間はずれの子など、自らの責任だけではどうにもならない悪条件を背負っている子が、あまりにも多いのに驚いたわたしは、これらを他人ごととは思えませんでした。
 わたしも親なし児なのです。わたしは、誰よりも真けんにこの子どもたちを励まし、その協力者となる責任があるのです。わたしが教員という仕事が自分に適していると思ったのはそのためです。



 私は、この文章を、明磧先生の「教師宣言」だと思い、すっかり感動しました。若い教師時代に、このように激しく燃える、それこそ不動明王のような迫力と慈愛に満ちた宣言をされた明磧先生という人間が形成されたのは、祖父母の愛情に包まれ、天王寺師範学校で森信三先生ほか、優れた教官の指導を受け、同輩の学生たちと学びあった賜物たまものだと思います。

 私が教職3年目に、犬吠山系(いぬぼうさんけい)の山中にある、別の小学校に勤務していた先輩教師から聞いた話ですが、当時(昭和50年代前半)、先輩教師の勤務校で、アルマイトの四角い弁当箱を大事そうに両手で抱えた児童が、そろりそろりと登校してきたのだそうです。先輩教師が「何を持ってきたの?」と尋ねると、その子は恥ずかしそうに弁当箱を隠そうとしたそうです。先輩教師は他の生徒にわからないように、その子を呼んで事情を聴くと「おかずがないから、弁当箱にごはんを入れて、味噌汁をぶっかけて持ってきた」と言って泣いたそうです。

 当時、私は、自分の居住地に、まだこんな家庭環境で生きている子どもがいるのだと知って、強い衝撃を受けました。私は、自分が世間知らずの「坊ちゃん先生」だったことに気づきました。
 教職2年目か3年目に、校内研修か何かの場面で、「私は良寛さんのように、子どもをかわいがり、一緒に遊べる教師になりたい」と抱負を述べたら、先輩教師から「100年早い」と一喝された覚えがあります。「坊ちゃん先生」のわりには、ずいぶんと子どもを叱り飛ばしていたのを、先輩教師に見抜かれていたのです。
 当時は、「自分がこんなにがんばって指導しているのだから、教え子のお前たちも宿題くらいは真剣にやってこい、いいな!!!」と、こんな調子だったのです。
 ああ、恥ずかしい。恥ずかしい。

(つづく)

追記
 「犬吠山系(いぬぼうさんけい)」という言葉は、犬吠埼灯台から九十九里浜に沿った台地を指す言葉で、私の初任校 銚子市立船木小学校の校歌の3番にある言葉です。現在はほとんど聞かれない言葉です。
 校歌の作詞は佐々木信綱、作曲は信時潔です。初任校が昭和28年に市町村合併で私の居住地に併合されたとき、校歌がなかった学校に校歌を創ろうと、当時の校長 磯村茂雄いそむらしげお先生が発案し、佐々木信綱先生を訪ねて懇願し、実現したそうです。
 この校長先生のことを私はよく知っています。私が中学生のとき、吹奏楽部の先輩のお父さんだったのです。家も近く、当時、いろいろなお話をお聞きすることができました。

 居住地の他校に先駆けて、犬吠山系の山から出る湧き水を職員と保護者総出で掘り進め、自前の水道管を学校まで敷き、水道がなかった学校で、生徒が自由に水を飲めるようにした話。

 弁当を持参できない子がいたため、給食室を建て、居住地で初めて自校給食を実現した話。

 「教科書で星座を教えてはだめだ」と号令をかけ、職員全員と全校児童、保護者を校庭に集め、夜から明け方まで天体観測させた話。

 これらは、戦後間もない昭和20年代後半から30年代始めの話です。国の「復興」とは、こういう意志を持つ一人の人間から始まり、それが地域に伝搬して実現するものだと思いました。

 まさか、中学時代に聞いていた話の学校に、自分が新採用教員として赴任するとは思いもしませんでした。ちなみに、磯村先生が校長在職中に、作曲家 弦哲也さんが生徒にいたそうです。
 私が赴任したときの子供の祖父母は、水道を敷いたころ、自校給食を始めたころ、夜間天体観測をしたころの保護者だったのです。当時、家庭訪問をしたときや授業参観日に学校を訪れた祖父母に、異口同音に「磯村校長のような教師になれ」と、何度も励まされました。
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