2015年10月6日のブログをリブログします。

 

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 植野明磧先生の名著『良寛さん』の読後感を書かせていただいています。今回は巻末「良寛さんの生涯」の最終章「遷化」(せんげ)です。
 ブログ筆者が改行を加えています。原典に傍点が付いている言葉2つは斜体にしました。

遷化
 ところが、天保元年(一八三〇)の七月、七十三才の良寛さんが、暑さあたりのためか、腹痛と下痢を患い、その後、一たん元気になったかに見えましたが、また、同じような症状を繰り返し、そのたび毎ごとに衰弱が加わって行きました。直腸癌がんだったようです。
 そして、その年の暮も近くなると、良寛さんの病状はますます悪化し、遂に、年が明けた天保二年(一八三一)の正月六日、その日の午後四時頃に、愛する貞心、法弟遍澄へんちょう、弟由之、元右衛門夫妻、その他の人々に見護られて、大往生を遂げたのです。時に、良寛さんは七十四才、今(昭和四十九年)から百四十三年前のことでした。
 良寛さんの遺骸いがいは、木村家の隣にあるこの家の菩提寺、浄土真宗隆泉寺の境内に葬られました。そしてその翌々年、天保四年三月に「良寛禅師之墓」が竣工し、四月に三周忌の追善供養が執り行なわれました。

  立ち添ひて今しも更に恋しきはしるしの石に残る面影  (貞心)

 三月に行われた竣工式のとき、大ぜいの参列者が、口々に良寛さんの遺徳を讃えるなかで、貞心さんは、新しい墓標に身を寄せて、このような歌を詠みました。そして、在りし日の良寛さんを偲しのんで、衣の袖そでをしぼるのでした。
 最愛の師を失った貞心尼は、その後柏崎の不求庵ふぐうあんに住み、明治五年(一八七二)二月十日に永眠したのです。

  良寛は これ仏なり
  誤って 人間に落つ
  人間は 識しらず
  比するに 寒山を以もってす

 これは、東洋大学の前身、哲学館の創立者井上円了いのうええんりょう博士の詩ですが、良寛さんは、たしかに 仏さま でした。わたしたちは、ただ、良寛さん という名を呼ぶだけで、なんとなく心が温まり、ほほえましくなるのは、良寛さんが、生仏だったからでありましょう。
 そしてまた、良寛さんは、書、詩、歌の三道に不滅の芸術を残しましたが、生仏である良寛さんの生涯が、そのまま優れた芸術であったからでもありましょう。
「遷化」の章 おわり


 井上円了博士の詩のとおり、明磧先生がお書きになったとおり、間違いなく、良寛和尚は、生仏だったのだと思いました。
 本章と、ひとつ前の章「島崎の木村家へ」は、両方とも、「ところが」という言葉で書き始められています。これは、晩年の良寛和尚が老衰のために体調を崩したことにより、村人に助けられながらも、辛い生活を送らざるを得なかったことを深く理解された植野明磧先生のお気持ちの現れではないか、と、私は推察しました。
 貞心尼さんは、明治の世を知って亡くなったのですね。良寛和尚が江戸後期の人だったことが改めて分かりました。
 本章を読み、良寛さんの命日が正月六日であることを知りました。正月六日は、私の祖父の命日でもあります。「ご縁があったのだ」と勝手に決め込み、少し嬉しがっています。
 著者の植野明磧うえのめいせき先生が、良寛和尚の逸話33編と「良寛さんの生涯」という伝記を、1冊の本にまとめてくださり、上品で分かりやすい名文と明磧先生自ら筆を取られた画によって、良寛和尚の事績や教えを伝えてくださったことが、本当にありがたく、ただただ感謝の念がこみ上げてきます。ありがとうございました。
 以前ブログにも書きましたが、他の逸話集と名著『良寛さん』が決定的に異なるところは、同一著者による名文と画の総合文藝として書き上げられた点だと思います。

 植野明磧先生の名著『良寛さん』は、3種類発行されました。
  『良寛さん』 1974(昭和49)年 柏樹社 (大判の豪華装幀本)
  『良寛さん 新装普及版』 1983(昭和58)年 柏樹社
  『良寛さん』 2001(平成13)年 社会思想社 現代教養文庫1642

 ブログに「名著『良寛さん』を読む」を書き進めるにあたっては、上記3冊を読み比べて誤植を訂正させていただきました。なお、ルビ(ふりがな)は現代教養文庫版を底本にしました。
名著『良寛さん』の巻末「良寛さんの生涯」 完

 名著『良寛さん』の巻末には、上記「良寛さんの生涯」に加えて、もうひとつ読み物があります。それは、「良寛さんを求めて」という表題がついた、植野明磧先生がご自身の半生をお書きになった、いわば自伝です。
 今後は、この「良寛さんを求めて」を紹介しながら読後感を書かせていただくことで、植野明磧先生を顕彰させていただきたいと考えています。
 ブログを書くきっかけを与えてくださった明磧先生のお孫さん Atsuko さんには心からお礼申し上げます。

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