佐藤一斎 著  久須本文雄 全訳注 『言志四録』 解題より
「三 著者 (二) 学風」 つづき


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 一斎の陽明学への傾斜の動機や王学の信奉について述べたのであるが、朱子学についてはこれを排せず、むしろ併せとる傾向である。つまり、朱王併取主義であるが、それは陽には朱子の学を唱え陰には陽明の学を奉ずるものである。彼のかかる朱王両学を併取することは、中江藤樹や中井竹山の学風を受けたことによると思うが、それは彼が藤原惺窩せいか(一五六一 ─ 一六一九)の朱王併取の学風に淵源している(『言志晩録』二六 ─ 三〇)と述べているところによっても知られる。
 彼が林家の塾長になり昌平黌の教官になったが、幕府の規則として儒官は朱子学を奉じなければならないので、公然と陽明学を主張することができなかったのである。それで陽朱陰王的にならざるを得なかったものといえる。しかしそのために、陽朱陰王の譏
そしりを受けるに至ったのである。一斎は朱・王を併せ取る立場ではあるが、しかしその主とする所は陽明学に存するものというべきである。ここを以て、彼を日本の陽明学派に列せしめる所以ゆえんである。
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 上記の学風を読み解くためには、陽明学と朱子学について概要を把握する必要がある。こういうとき、辞書は便利である。短く端的に説明する語釈が役に立つ。

《国語大辞典(小学館1988)を読む》
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ようめいがく(ヤウメイ‥)【陽明学】
中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説。人は生来備えている良知(是非・善悪・正邪の判断力)を養って、知識と実践とを一体化すべきだとするもの。わが国では、江戸時代、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持した。王学。

なかえ‐とうじゅ【中江藤樹】 江戸初期の儒者。近江国(滋賀県)の人。名は原、字は惟命(これなが)。通称与右衛門。伊予国(愛媛県)大洲藩に仕えたが、のち帰郷して村民を教化した。王陽明の知行合一説に傾倒し、わが国陽明学の首唱者となる。世に近江聖人と称せられ、門下から淵岡山、熊沢蕃山らが出た。著「翁問答」「鑑草」など。(一六〇八~四八)

くまざわ‐ばんざん(くまざは‥)【熊沢蕃山】 江戸前期の陽明学者。名は伯継。字は了介。通称次郎八。別号息遊軒。京都の人。中江藤樹に師事。岡山藩主池田光政に招かれ、家老として藩政に治績をあげる。晩年、幕府の疑いをうけて下総国古河に禁錮中、病没。著に「集義和書」「集義外書」「大学或問」「三輪物語」「源氏外伝」など。(一六一九~九一)

みん【明】
中国、朱元璋(太祖洪武帝)が元を倒して建てた漢民族の王朝(一三六八~一六四四)。初め南京に都したが、二代恵帝から帝位を奪った永楽帝は、北京に遷都して蒙古を親征、南海諸国にも朝貢を求め、その勢威は一時は黒竜江からアフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は北虜南倭に苦しみ、宦官の専権が国政を乱し、内乱・党争が止まず、李自成に北京を占領されて滅びた。

しゅしがく【朱子学】
中国で宋の時代に周敦頤(しゅうとんい)、程明道、程伊川などに始まり、朱子に至って大成した儒教の学説。宇宙を原理としての「理」と、存在としての「気」とからとらえる理気説と、人間の性のうち、理から生じた「本然の性」に絶対を認める性理説をその理念とし、格物致知をもととして治国平天下を目的とする実践道徳を唱えたもの。わが国には、明に渡った南禅寺の僧桂庵らにより伝えられ、江戸時代、幕府から官学として保護をうけた。程朱学。宋学。道学。朱学。

そう【宋】
中国の国名。
(1) 周代の諸侯国の一つ(~前二八六)。殷の宗族、紂王の異母兄、微子啓の封ぜられた国。河南省の商邱に都し、殷の遺民を統治したと伝えられる。三二世で斉・魏・楚に滅ぼされた。
(2) 中国、南北朝時代、南朝最初の王朝(四二〇~四七九)。東晋の部将劉裕(高祖)が建国。建康(南京)に都した。第三代文帝の治世(元嘉の治)が最盛期。八世で斉王の武将蕭道成に帝位を譲り滅んだ。建国者の姓をとって劉宋と称される。
(3) 中国の統一王朝(九六〇~一二七九)。趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。(べん=開封)に都して、中央集権を徹底し、文治主義の君主独裁制を樹立。文運が隆盛したが、軍事・財政危機に苦しみ、対外的には、遼・西夏・金に対して守勢にたち、一一二七年金に圧迫され九代で江南に移った。それ以前を北宋、以後臨安に都して蒙古に滅ぼされるまでを南宋と称する。

えんげん【淵源】
物事の起こり基づくところ。物事が成り立っているそのもと。根源。「淵源をきわめる」

しょうへい‐こう(シャウヘイクヮウ)【昌平黌】 「昌平坂学問所」の別称。

しょうへいざか‐がくもんじょ(シャウヘイ‥)【昌平坂学問所】 江戸幕府の学問所。寛永七年幕府は林羅山に土地を与え、のち徳川義直の寄進で聖堂を建立、林鵞峰の時私塾となる。徳川綱吉の文教奨励により、元禄三年上野忍岡から湯島に移り、林家が大学頭を主宰し、官学化。聖堂は大成殿となる。寛政二年異学の禁で幕臣の教育所となる。明治維新後昌平校、のち大学校と呼ばれ明治三年閉鎖。聖堂。昌平黌。
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 それにしても、陽明学も朱子学も儒教の教えなのに、どうして幕府は陽明学を嫌い、朱子学を推奨したのだろうか、という疑問が生じ、上記の辞典の語釈をじっくりと読んでみた。しかし、ぼんくら頭の、名前の通りの素人学者には、「陽明学は幕藩体制に支障をきたす、と、幕府が判断したのだろう」という想像が関の山で、よくわからなかった。

せきのやま【関の山】
それ以上できないという限度。最上の程度。精いっぱい。
(国語大辞典)

 少し調べてみた。

◎朱子学は上下の身分秩序を重んじたため、士農工商の身分制や
 反乱の抑制などの正当化に寄与した。

◎陽明学は、知行合一を説き、知識だけではだめで、反乱指導に
 よる民の救済などの実践思想の学問で、幕府にとっては都合の
 悪い学問だったので、取り締まりは厳しかった。
 「大塩平八郎の乱」の大塩平八郎も陽明学を学んでいた。

 なるほど、孔子の儒教といっても、年数が経つうちに、学派が枝分かれしていったのだろうか。仏教と同じだと思った。

 次回のブログは「三 著者 (三) 学説」に進みたい。


つづく