前回のブログは、良寛和尚が「なぜそんなに手まりをつくのか」という疑問について、著者の植野明磧先生の「わたしたちの知りたいのは、実はそのことなのです」という言葉で終わりました。
今日のブログは、その続きから。明磧先生の解題は続きます。太字や下線はブログ筆者によります。
--ここから
良寛さんの徳を慕って弟子入りをした、あの若くて美貌(びぼう)の尼僧貞心(ていしん)さんも、最初、面接のきっかけを得るために贈った手紙のなかに、次の歌一首を添えました。
これぞ此(こ)のほとけの道にあそびつゝつくやつきせぬみのりなるならむ
つまり、「あなたは仏道を行じていらっしゃるお方なのに、いつも、子どもたちと手まりをついて遊んでいらっしゃるのには、何か深いわけがおありなのでしょうね」というのです。これに対して良寛さんは、次のような歌を返しました。
つきてみよひふみよいむなやここのとをとをとをさめてまたはじまるを
やはり良寛さんは、「そんなむつかしいお尋ねには、わしはどう答えたらよいか分からないよ。まあとにかく、あなたもついてみたらどうじゃろうのう」と答えるだけでそのわけを言っていません。
禅門では、「一二三四五六七」は、森羅万象(しんらばんしょう)を意味する、深い真理を表わす言葉のようですが、貞心尼のような優れた人でさえ、良寛さんの好んで手まりをつく理由が理解できなかったのです。ですから、一般の大人たちが、子伜(こせがれ)どもとまりつきに興じる良寛さんの姿を、随分奇妙に思えたのも無理のないことでした。
--ここまで
いよいよ良寛和尚の逸話集に貞心尼が登場しました。名著『良寛さん』の最後から1つ前の逸話「貞心尼の訪れ」にも貞心尼は登場します。
この貞心尼の問いかけにも、良寛和尚は上のとおり、核心を突く解答を与えていません・・・・・・というより、貞心尼であっても、良寛和尚の境地まで辿りついていないため、実感としてわからなかったのではないでしょうか。
良寛和尚と貞心尼、お二人の詠まれた歌の意味は、明磧先生の解題によって理解できましたが、「一二三四五六七」について、ネット検索してみました。
--ここから
「一二三四五六七」と書いて恥知らずと読みます。
これは、孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥という八つの徳の内、八番目が欠けているので恥知らずと読ませたようです。
この逸話における「一二三四五六七」が「恥知らず」を意味するのかどうか。明磧先生が解題において“禅門では、「一二三四五六七」は、森羅万象(しんらばんしょう)を意味する、深い真理を表わす言葉”のようであるとお書きになっていらっしゃることからも、良寛和尚が手まりをつくことにこだわった理由として、「恥知らず」は意味をなさないのではないか、と、私は思いました。
良寛和尚と手まりつきの謎は次のブログに持ち越します。
《辞書を読む》 ことわりのないかぎり『国語大辞典』(小学館1988)
びぼう(‥バウ)【美貌】
美しい顔かたち。きれいな容貌。多く、女性の容貌についていう。「美貌を誇る」
「あそびつゝ」の「ゝ」
これは「踊字(おどりじ)」とも呼ばれる「繰り返し記号」の一つです。
パソコンのIME(日本語入力システム)で「きごう」と入力して数回変換キーを押すと「踊字」が出てきます。今回、変換キーを押しながら改めて知ったことは「ゝ」は「ひらがなの繰り返し」に用い、「ヽ」は「カタカナの繰り返し」に用いるということでした。
おどりじ(をどり‥)【踊字】
熟語で同じ漢字、またはかなを重ねるときに使う符号。「ゝ・く・々・[※]」など。かさね字。畳字(じょうじ)。
※上の「 」内の[※]には、実際には「ゝ」を縦に二つ重ねた形の踊字が入る。
ぜんもん【禅門】
1 禅宗の法門。また禅宗。
2 禅定(ぜんじょう)の門にはいったものの意で、仏門にはいった男子。在家(ざいけ)のままで、髪をそり、僧の姿となった居士(こじ)。入道。
しんらばんしょう(‥バンシャウ)【森羅万象】
Ⅰ 宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事。しんらまんぞう。
Ⅱ ⇒かつらがわほさん(桂川甫粲)
かつらがわ‐ほさん(かつらがは‥)【桂川甫粲】 江戸後期の医師、蘭学者、戯作者、狂歌作者。本姓、森島。号は森羅亭万象、竹杖為軽など。洒落本、滑稽本、読本、黄表紙を多数著わし狂歌にもすぐれた。(一七五四~一八〇八)
今日のブログは、その続きから。明磧先生の解題は続きます。太字や下線はブログ筆者によります。
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良寛さんの徳を慕って弟子入りをした、あの若くて美貌(びぼう)の尼僧貞心(ていしん)さんも、最初、面接のきっかけを得るために贈った手紙のなかに、次の歌一首を添えました。
これぞ此(こ)のほとけの道にあそびつゝつくやつきせぬみのりなるならむ
つまり、「あなたは仏道を行じていらっしゃるお方なのに、いつも、子どもたちと手まりをついて遊んでいらっしゃるのには、何か深いわけがおありなのでしょうね」というのです。これに対して良寛さんは、次のような歌を返しました。
つきてみよひふみよいむなやここのとをとをとをさめてまたはじまるを
やはり良寛さんは、「そんなむつかしいお尋ねには、わしはどう答えたらよいか分からないよ。まあとにかく、あなたもついてみたらどうじゃろうのう」と答えるだけでそのわけを言っていません。
禅門では、「一二三四五六七」は、森羅万象(しんらばんしょう)を意味する、深い真理を表わす言葉のようですが、貞心尼のような優れた人でさえ、良寛さんの好んで手まりをつく理由が理解できなかったのです。ですから、一般の大人たちが、子伜(こせがれ)どもとまりつきに興じる良寛さんの姿を、随分奇妙に思えたのも無理のないことでした。
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いよいよ良寛和尚の逸話集に貞心尼が登場しました。名著『良寛さん』の最後から1つ前の逸話「貞心尼の訪れ」にも貞心尼は登場します。
この貞心尼の問いかけにも、良寛和尚は上のとおり、核心を突く解答を与えていません・・・・・・というより、貞心尼であっても、良寛和尚の境地まで辿りついていないため、実感としてわからなかったのではないでしょうか。
良寛和尚と貞心尼、お二人の詠まれた歌の意味は、明磧先生の解題によって理解できましたが、「一二三四五六七」について、ネット検索してみました。
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「一二三四五六七」と書いて恥知らずと読みます。
これは、孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥という八つの徳の内、八番目が欠けているので恥知らずと読ませたようです。
(「言葉の雑学集」から引用)
--ここまでこの逸話における「一二三四五六七」が「恥知らず」を意味するのかどうか。明磧先生が解題において“禅門では、「一二三四五六七」は、森羅万象(しんらばんしょう)を意味する、深い真理を表わす言葉”のようであるとお書きになっていらっしゃることからも、良寛和尚が手まりをつくことにこだわった理由として、「恥知らず」は意味をなさないのではないか、と、私は思いました。
良寛和尚と手まりつきの謎は次のブログに持ち越します。
《辞書を読む》 ことわりのないかぎり『国語大辞典』(小学館1988)
びぼう(‥バウ)【美貌】
美しい顔かたち。きれいな容貌。多く、女性の容貌についていう。「美貌を誇る」
「あそびつゝ」の「ゝ」
これは「踊字(おどりじ)」とも呼ばれる「繰り返し記号」の一つです。
パソコンのIME(日本語入力システム)で「きごう」と入力して数回変換キーを押すと「踊字」が出てきます。今回、変換キーを押しながら改めて知ったことは「ゝ」は「ひらがなの繰り返し」に用い、「ヽ」は「カタカナの繰り返し」に用いるということでした。
おどりじ(をどり‥)【踊字】
熟語で同じ漢字、またはかなを重ねるときに使う符号。「ゝ・く・々・[※]」など。かさね字。畳字(じょうじ)。
※上の「 」内の[※]には、実際には「ゝ」を縦に二つ重ねた形の踊字が入る。
ぜんもん【禅門】
1 禅宗の法門。また禅宗。
2 禅定(ぜんじょう)の門にはいったものの意で、仏門にはいった男子。在家(ざいけ)のままで、髪をそり、僧の姿となった居士(こじ)。入道。
しんらばんしょう(‥バンシャウ)【森羅万象】
Ⅰ 宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事。しんらまんぞう。
Ⅱ ⇒かつらがわほさん(桂川甫粲)
かつらがわ‐ほさん(かつらがは‥)【桂川甫粲】 江戸後期の医師、蘭学者、戯作者、狂歌作者。本姓、森島。号は森羅亭万象、竹杖為軽など。洒落本、滑稽本、読本、黄表紙を多数著わし狂歌にもすぐれた。(一七五四~一八〇八)