地震があって、1週間くらい食べ物が普通に手に入らなくて、
でも米だけはなんとか手に入って、ご飯が食べれた時、
本当に美味しかったのです。

何言ってるんだと思われるでしょうが、恥ずかしいけど、こうなった時に初めて気が付きました。

もう、別に贅沢な食べ物なんていらないと思いました。
毎日安全なものを食べられるなら、何だっていいやと。

しょせん数十年だけの借り物の体、何も贅沢させる必要なんてないし
太らせることなんてないんだと。
お肌を美しくとか、肉体を若々しくとか、大した意味などないのだと。

じゃぁ、体を借りて生きるというのはどういうことなんだろう。

もし、死んで魂が自由になってどこへでも好きなところへ行けるのだとしたら
体は制限を設けるものなのかもしれない。

もし、死んで魂だけになったら、熱さ寒さも感じないのだとしたら、
体は感覚器なのかもしれない。

それらを与えられて、私は一体何をしたいんだろう。


暑いも寒いも辛いからと、エアコンをつける。
それって、もしかしてせっかく借りてる感覚器の体を使わないってことになるかな?

遠くに行きたいからと電車や車を使う。
それって、もしかしてせっかくつけている制限をはずしてしまっている?
制限を外すことによって、本当はその場所にとどまって
気が付かなければならないことに、気が付かないでいる?