久しぶりに会った宮城の伯母に空襲経験談を聞かされましたビックリマーク
詳細まで覚えていて、とてもリアルだったので、

忘れないうちに書き留めておこうと思いますあせる

そんなに暗い話ではありませんのでご安心下さいパー

ただ、私の両親は共に戦後生まれだったので初めて聞く話でした。


たまたまそういう話になっただけで、詳しく取材したわけではないので

不明瞭な点もあるかと思いますあせる

ご質問があればぜひコメントくださいね目

後日聞いておきますのでパー


先日ドラマで東京大空襲をやりましたね目

伯母の話はその十日くらい前の話ですひらめき電球


昭和20年3月ごろ、

私の祖父(つまり伯母の父)は日本鋼管(NKK)に勤めていました。
神奈川県川崎市に現在も島一帯にNKKがあります、そちらです。


伯母は一番上の長女で小学3年生こども女の子ランドセル、下に小学生の妹女の子。ランドセル、

小学生の弟男の子。ランドセル 黒、5歳の弟boy通園バッグ、1歳の妹赤ちゃんが当時いました。

(私の母はまだ生まれていません。)


昭和19年、戦争が激しくなり、

国の命令で学童疎開というのがありました。

ある一定の年齢の子供たちを空襲から守るために、

空襲の少ない郊外へ住まわせるのです。

戦争で大人が死んでも、

次の世代だけでも生き残れば日本がなくならないからです。

学童疎開ともうひとつ、なんとかという疎開があったんですが

彼女は学童疎開を選びました。

家族と離れて一人、郊外で半年以上暮らしたそうですダウン


以下伯母目線で話を進めます。


親と面会できる日が1日だけ予定されていて、

それは昭和20年3月15日。

しかし3月入ってすぐに、突然父と親戚のおばちゃんが迎えにきましたビックリマーク

聞けば、

「戦争がいよいよ激しくなってきたから、宮城に帰るぞ」

という事です。

あわてて荷造りをしましたあせる


荷造りと言ってもツヅラ(昔でいうダンボール箱)一個です。

そのツヅラを親戚のおばちゃんが背負ってくれて、川崎の家路につきました。


当時子供たちには

シラミ(頭につくノミみたいな虫。ピョンピョン跳ねて人にうつる)

がはやっていたので、自分の荷物は家の玄関の外に置かれて、

入れさせてもらえませんでした汗

家の中を見ると、もうすでに家の荷物はまとまっていてキレイさっぱり目

あとは持ち出すだけになっていましたひらめき電球


荷物を他へ送るのに、政府の許可証が必要だったので、

川崎駅にえんえんならんで手続きをしました。

あとは許可証の交付待ちです。

ものすごくたくさんの人が田舎へ逃げようとしてた時ですから、

順番待ちもものすごくて、2~3日は待つという状態でしたあせる


そのあいだ父は当然、離れた仕事場に行きます。(同じ市内ですが)


そんな中、空襲にあいました。


結果を先に申しますと、家族は誰も死なず、誰も離れ離れにならず、

幸運なことにみんなで宮城に行けたそうです。


長くなりましたので続きは次回パー