1965年11月17日、この日は第1回のドラフト会議が行われた。球界に衝撃が走った。4日前の11/13に、南海の次期監督に決まったばかりの蔭山和夫氏が、亡くなった。38歳の若さだった。
その年の日本シリーズで、巨人に敗れ、鶴岡氏は、南海の監督を辞任。蔭山氏も、責任を取りヘッドコーチを辞意を球団に提出。1962年にチームが低迷し、鶴岡氏が「指揮官が悪ければ部下は全滅する」と言って、休養し、監督代行を務めた期間で2位に上り詰めた実績があり、後任候補だった。両者の退団で、球団が大揺れ。
8日に、鶴岡の辞意を了承し、改めて、蔭山に監督要請し、監督えの昇格が決定。自身は、条件をのんでくれれば、引き受けると回答。口約束でなく、文章化を要望。13日に就任発表となった。
一方の鶴岡は、東京オリオンズ(当時)と、サンケイスワローズ(当時)から監督の就任要請を受けて、どちらを選ぶかは、16日か17日までに決め、決定したら東京で発表する方針だった。
17日に飛行機で東京に向かい、経緯と球団を明らかにするはずだったが、当日、思わぬ事態が発生。
13日に、就任発表した蔭山和夫氏が、突然亡くなった。この4日間、コーチの人選等に頭を抱え、睡眠時間も平均2時間だった。精神安定剤を多量に服用してた。最後の言葉は「野村に連絡してくれ」だった。死因は急性副腎不全。別名ポックリ病だった。
一方の鶴岡氏は、突然の訃報を受けて、上京を延期を表明。球団は、鶴岡氏を呼び戻す予定がなかったのですが、南海の選手・コーチから復帰を望む声が高まった。選手会長兼主将だった野村克也が、鶴岡氏の自宅を訪れ、監督復帰を要望。即答はできなかったが、鶴岡氏の復帰へ説得。
再び南海の監督に復帰。1968年まで務めた。監督在位期間は23年にも及んだ。
蔭山氏は、市岡高校、早稲田大学を経て1950年南海に入団。翌年は打率.315の成績を残し新人王を受賞。現在の新人王の規定は5年目までで、打者60打席未満、踏投手30回未満だが、当時は、蔭山は、もちろん現行のルールでは規定から外れるが、当時は2年目までだった。
足が速く、1951年~3年連続30盗塁以上、リーグ最多三塁打4度記録。1950年の年間15の三塁打は、未だに破られてない。守備では飯田徳治、木塚忠助とともに「100万$の内野陣」を形成し、リーグ優勝にも貢献。
1959年に引退し、引退後は、鶴岡監督のヘッドコーチとしてチームを支えた、野村克也の数少ない相談相手でもあった。冒頭でも書いたが、1966年のシーズンからは、監督として指揮するはずでしたが、突然亡くなり、実現しなかった。もし、実現すれば、360度南海の歴史が覆る出来事に遭遇したかも・・・
大学時代は、6大学通算74得点は、2008年に上本博紀が83得点で更新するまで、リーグ記録だった。