1997年11月4日は、俊足・強肩・強打の外野手、「じゃじゃ馬」の愛称で親しまれた青田昇氏が、肺癌で死去。72歳だった。2009年殿堂入り。
青田氏は、1942年7月、17歳の時巨人に入団。翌年、43打点で打点王。低打率、本塁打0での珍しい記録になった。軍隊経験を経て、1945年に阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に入団。プロ野球に復帰。阪急ではレンタル移籍入団のため、48年、巨人に復帰。
プロ野球初の大下弘が20本塁打を打ったのに影響を受け、打撃コーチがいない時代、左手一本で200~300ノックを打ち続ける我流で、練習。打率は落としたが、11本塁打と、成果がでた。
48年別府キャンプで、青田、川上、千葉に三原脩を加えた4人で、「どうしたらもっとホームランを打てるか」研究。彼らが集まるたんびに当時の研究を主張。それが実を結び、川上と25本塁打で本塁打王を獲得。チームメートで、本塁打王を分け合ってタイトルを取るのは2014年の西武メヒア・中村まで66年間出なかった。首位打者も獲り2冠となった。
1950年、他球団へのトレードも上されたが、巨人に残り、打率.332、33本塁打、134打点、盗塁も29個、これは惜しくも、流行語大賞にもなった「トリプルスリー」なならず、51年は打率.315(9位) 32本塁打、105打点はリーグトップで自身二度目の二冠。52年オフ、B球10年選手(今でいうFA)の資格を利用して。洋松(大洋・松竹の合併球団・現DeNA)に移籍。53年4月29日の巨人戦でサイクル安打を達成。
54年に復調すると、31本塁打で本塁打王。55年も好調を意義しながら、17本に終わるが、56年25本塁打、57年22本塁打と2年連続本塁打王。なお、22本塁打での本塁打王は、現在でも、佐藤孝夫、藤本勝己ともに最少本塁打王として記録が残ってる(パリーグは58年中西太の23本塁打)。56年には5月6日の広島戦で、ダブルヘッダーで4打席連続本塁打も記録。
1959年に阪急に移籍するが、けがの影響で、この年で引退。引退後は、補導歴として、62年阪神打撃コーチ、MBSの解説者を経て、当時阪急の監督だった西本幸雄に誘われ、打撃コーチに就任。青田が西本に招聘理由を聞くと、怒鳴れるコーチがあんたしかいないの返答が返ってきた。67年に球団初リーグ優勝。長池、山口、森本らを指導。長池は、青田氏の指導で、球界を代表するスラッガーに成長。長池は温帯後も。「自分は青田さんによって造られたホームランバッター」と述べ、後、西武の看板打者として成長した秋山も、青田氏直伝の打撃を伝授。
阪急を退団し、日本テレビの解説者を経て、72年大洋のヘッドコーチ翌年は、監督に。球団に優勝すれば「日本シリーズの収益20%頂戴する」が条件でしたが、チームが5位で低迷し、辞任。再び評論家生活を経て、79年オフ、巨人のヘッドーコーチに。ベテランの衰えが顕著に表れ、時世代の若手が急務と考えた、長嶋茂雄監督は、「伊東キャンプ」を敢行。このキャンプでは、江川、西本、鹿取、角、篠塚、中畑、松本らを鍛え上げ、80年代をになう選手に成長した。
1980年に入って、サンデー毎日の取材で、野球賭博を疑われ、記者に「ピンボケ」「勉強不足」「バカヤロー!!」と罵倒。そのまま週刊誌に載ってしまい。青田はコーチを辞任。
ユニホームを脱いだからは、解説者として、毒舌ぶりを披露。特に、ズームイン朝では、巨人に対し辛辣な発言の繰り返し、特に、長嶋が二次政権の時、負けが込んだりすると、厳しい言葉を並べました。それだけ、どの在籍した球団よりも、巨人に愛着を感じます。テレビ東京のスポーツ番組では、阪神ファンのダンカンや松村とともに、阪神の再建にも毒を巻いた。
とある番組で、松村が青田氏からの電話を受けて、掛布のものまねで話通すの企画で、松村は見事ばれずに終わったが、青田自身は、うすうすと、感じてました。
青田氏が亡くなった同じ日に、ある大学生の大きな入すもありました、慶応大学の高橋由伸(現監督)が巨人を逆指名したことです。なぜか長嶋さんは「青田」と言うところを「青木先輩」言い間違えた。
もう一人巨人に毒舌を振るう男、プロ野球ニュースの解説者で、学校では2年先輩の別所毅彦氏が、「青田に悪いが、(由伸は)青田の生まれ変わり」と述べていた。その由伸も、現役時代は。走攻守3拍子揃った選手でした、昨年現役を引退。即監督に、今季は、2位でしたが、優勝した広島には、17.5ゲームの大差をつけられました。生きてたら91歳ですが、このふがいない成績に、辛辣な意見が飛び出しそう。