新庄選手は1990年D5位で阪神に入団。翌91年にプロ初安打初打点を記録。レギュラーの定着のきっかけになったのは、サードを守ってたオマリーが骨折で帰国することになり、昇格、即スタメンで初本塁打を放ち、その後打ち続け、オマリーが復帰後は、センターに移り、ここでも、攻守に活躍。中でもすごかったのは9/16の広島戦で、8回の守備で山崎の打球をスーパーキャッチし、9回の打席では、前年、最優秀救援賞の大野からのサヨナラ2ランが印象的で、これまで低迷したチームを、お隣のライトを守ってた亀山とともに2位浮上に貢献し、「亀新コンビ」の誕生となった。
翌年は、開幕こそ出遅れたが、復帰すると本塁打を量産し、本塁打王争いに加わる勢いだったが、途中、失速したが23本塁打を放ち、シーズン終盤は最年少4番も任された。2000年に、28本塁打、85打点と自己最高の成績を収めたが、この年のオフにFAでニューヨークメッツに移籍、日本人2人目の野手のメジャーリーガーが誕生しました。ちょうどイチローもメジャー移籍し、「記録はイチロー君 記憶は僕に任せて」と言ってました。
メッツの監督が、ロッテでも指揮したバレンタインで、後に同じくロッテで活躍したベニーアグバヤニとチームメートとなった。日本人最初に4番も任されました、翌年は、年間73本塁打の世界記録保持者バリーボンズのいるサンフランシスコジャイアンツに移籍。ここでも、最初に満塁本塁打を打ち、チームは優勝しワールドシリーズにも出て、9番指名打者でスタメン出場も果たしヒット1本打ちました。再びメッツに戻ったが大半がマイナーで暮らし、この年のオフに契約解除になり、次の年から、札幌に本拠地を移す日本ハムファイターズに入団し、阪神、メッツ、ジャイアンツでつけた「5」ではなく、「1」を付けた。日本復帰会見でも「メジャーでもなく、セリーグでもなく パリーグです」という発言は、今後パリーグが人気になりつつあることを感じてたかもしれません。開幕戦では2番を任されました。この年は、自己最高打率.298を残した。2006年4月に東京ドームで1試合自身初の3本塁打を打った時ヒーローインタビューで衝撃的は発言しました「引退宣言」です。
これは、翌年、テレビに出演した時に、視力の低下が原因でした。身体能力からしても後2,3年は現役でできたはずです。
新庄選手は、打撃では、好不調の波が激しかったですが、壺にはまれば、手がつけられない選手でした。劇的が似合う男でした。敬遠のボールをサヨナラ安打したり、20世紀最後のサヨナラ本塁打も新庄でした。メジャーに行った時も、報道陣の前に「最初の打席でヒットが出る気がします」と公言したが、開幕こそスタメンではなかったが途中守備に就き回ってきた打席でセンタートライとにしぶとく落とすヒットでした。余地能力でもあるのかと、日本復帰後のオールスターでも本盗を公言したが、本当にやってのけるところがすごいところです。
守備では、自慢の強肩もそうですが、捕手の構えで守備位置を変えたり、時には、ライト、レフトの選手にも、指示したりします。日本ハムにいた時、稲葉選手に、指示したら、指示した場所に打球が飛び、稲葉自身も驚いた表情してたみたいです。フライを捕球するときに軽く飛びながらキャッチします。投げる動作に入る準備見たいで、松井選手も、参考にしてまねようとした。
阪神時代では、プレー以外で目立ったことしたことなかったが日本ハム時代はピンチで内野手がマウンドに集まる時、新庄を中心に稲葉、稀哲の3人が片膝を立て、グラブを頭に乗せて集まるのが儀式でした。
日本ハムでは、本塁打を打つごとに「~打法」と1本1本に名前を付けてました。ファンサービスに徹したと思います。ただ、度が過ぎたこともありました、甲子園での阪神との試合開始前にシートノックします。新庄選手は日本ハムの選手なので日本ハムのユニホームを着用しなければいけないのに、阪神のユニーホームを着てノックを受けてました。阪神ファンは喜んでくれたでしょうが、ヒルマン監督に注意を受けました。それだけ、野球ファンのことを真剣に考えたと思います。
走塁に興味を持てば、3割、30本、30盗塁できた選手かもしれません。強肩はもちろん、落下点に入るための脚力は、素晴らしいです。あんまり走塁に興味がなかったようです。年間の自己最高は15盗塁です。あの脚力からしたら、30はできると思っました。
プロの世界では、内野手用、外野手用のグローブがあります。新庄選手は、プロ入りと同時に、8000円で購入したグローブを現役を引退するまで使い続けました。長島茂雄みたいに、何度かグローブを変える選手がいる中、王さんみたいにグローブを変えず、自分でもしくは職人さんに修理してもらって使う選手もいます。それだけ、道具を大事に使っていたと思います。新庄が8000円で購入しつか続けたグローブは、野球博物館に飾られてます。
最後に、もったいないことしたのがあります。2004年9月のダイエー戦で同点に追いつきなおも満塁のチャンスで新庄に回り、何とサヨナラ満塁本塁打のはずが、前の走者と喜びすぎて、追い越し扱いになり、本塁打が取り消しになった。「僕らしくていいじゃないですか」と答えたが、もしこれが、追い越さず生還すれば、両リーグでサヨナラ満塁本塁打を打った選手とて残りました。阪神時代の1994年のヤクルト戦でサヨナラ満塁本塁打を打ったことあったからです。本当に惜しいことしたと思います。
現在は、野球界から離れてますが、何らかの形で貢献してほしいです。