かわじーの太宰府レポを見て「何か違う…」お思いになった方もいるでしょう。

太宰府行ったら、大宰府天満宮お詣りして、梅ヶ枝餅食べて、時間があったら周辺のお寺か九州国立博物館…というのが普通です。
かわじーも実はそうするつもりやったんですよ。






でも、かわじーの着眼点はいつも、どこかおかしいらしいのです。
例えば、大宰府展示館に行き、出土品や「菅公・梅花の宴」などには目もくれず、ひたすら地形図の模型を見ておもしろがっている…

学芸員さんに「兵法の研究をされてるんですか?」と言われました。
そんなわけあるかい(笑)
バッグにことりっぷ入れて旅する女が、どこを攻め落とすっちゅーねん(笑)






何回も同じ地形図を出しますが、これが一番わかりやすかったので。


この大宰府の位置をみて、かわじーは学芸員さんに言いました。
かわじー「それにしても、随分ひいて護ったんですねえ」

…この一言で、学芸員さんのなかでかわじー兵法家に決定したらしい(笑)






だってそう思いません?
元寇のときは壱岐や志賀島で戦い、
秀吉の朝鮮出兵の本拠・名護屋城は、日本海に面した佐賀の呼子にあったんですもん。






大宰府はどんな都城やったんでしょうね。






ことりっぷ頼りのかわいい観光客が見た、大宰府レポです。
①条坊と政治機関
②観世音寺と国分寺
③大宰府の600年






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①条坊と政治機関

さて大宰府。
まず政庁跡からいきましょう。こーゆーところです。

背後の山には、都城を護る大野城。
地元の方が建てられたという碑が3つ。中央の碑には「都督府古趾」。

「都督やって~、三国志みたい~、かっこいい~」と思う時点で、ことりっぷ女子失格?






大宰府…ただの政府機関ではなく、ただの軍事基地でもなく、
「西の都」、条坊が整った都市だったのではないかといわれています。


平城京の1/4くらいということになるらしい。
これは戦前、最初に提唱した鏡山さんという学者さんによる図で、

その後の発掘で、またなんかいろいろ新発見も不明点もあるらしく、大宰府の条坊についてはいまだ決着がつかないらしい。






碁盤の目のような古えの街・奈良に育ったかわじーは、この地図を見て、

条坊はあったと仮定した場合、
その後いったいどんな歴史を辿って、こんなタテヨコ関係なく自由な方向に道が伸びてしまったのかが気になった(笑)







大宰府にはこんな機関があったみたいですよ。


そのうちのひとつ、学校院はそばを通りました


なんにもないけど~。







あ、近くにこんな中学校ありましたよ
太宰府市立学業院中学校

なんかビミョーに学校院と名前が違う理由はわかりませんが、勉強させられそうな学校ですよね(笑)
ちなみに隣りには「水城小学校」がありました。
走り回ってる子供達、君らこのプレシャスな校名、わかってる?(笑)






詳しくは書きませんが、「蔵司」「匠司」など19の官衙が政庁周辺にあったと記録されているそうです。






ところで、大宰府の起源はいつか。

定説では536年に設置された那津宮家が大宰府の前身とされており、推古天皇の609年に「筑紫大宰」という記載があるらしい。
これはもっと海に近いところにあった。






そして、白村江の戦いて、内陸部に移動。
現在の大宰府の場所に、おそらく最初は軍事的な基地を主目的に作られたんでしょうね。

最初から条坊を備えた都城やったのか、徐々に都らしくなっていったのか、かわじーはよくわかりませんが、







②観世音寺と戒壇

大宰府には、立派なお寺もありました。
観世音寺をレポしなければなりますまい。






大宰府には往時、中央に負けないほどの堂々たる伽藍や、豪族の氏寺が甍を並べたらしい。その最たるものが観世音寺。

日本三戒壇のひとつ、とかわじーは漠然と認識していましたが、







この寺は、天智天皇の発願て、母の斉明天皇を弔うために建てられた。
七堂伽藍を備えた、堂々たる大寺やったようです。







ん?ちょっとまって。年表確認。







661年  斉明天皇が中大兄皇子(天智天皇)を伴って筑紫入り。4か月後に怪死。

663年   白村江の戦いで大敗
664年   水城築城
665年   大野城築城

こんな非常事態に、供養寺建てる余裕がどこに!?バカじゃねーの…






いや、つい現代人の本音が。
その観世音寺







宝庫に平安時代以降の仏像は残っていますが、伽藍はほとんど失われたままで、ちょっとさびしい。大きなお寺だったことが伺えます。






発願者の天智天皇は、寺の完成を見る前に亡くなってしまいました。
寺が完成したのは、発願から80数年後やったそうです。

そりゃそうでしょ、そんな暇ないって。







746年、奈良から左遷…いや派遣された高僧・玄ボウによって、寺は完成。
でも、その供養の法要の日、玄ボウは死亡したと伝えられる(続日本紀)

観世音寺の本堂の裏には、玄ボウの墓と伝えられる石塔があります。








観世音寺でもうひとつ。

国家に庇護された観世音寺は「府の大寺」と呼ばれ、
戒壇院は、東大寺・下野薬師寺と並んで、天下の三戒壇といわれたそうです。






現在は観世音寺とは別の、禅宗寺院になっています。


右側が鑑真和上の供養塔


天智天皇、玄ボウ、鑑真和上…奈良の寺や遺跡でよく聞く名前が満載ですね。
大宰府と奈良が、政治でも仏教でも、距離を越えて繋がっていたんやなあって思いました。







③大宰府の600年

大宰府のスタートは白村江の大敗北(663年)として、
いつまで大宰府やったか知ってますか?






答えは鎌倉時代。
12世紀に鎌倉幕府が鎮西奉行を置くまでです。

約500年、大宰府の前身機関も合わせれば600年間。
徳川幕府の2倍もの期間ですって。







その間、時代によって目的も役割も変わったんでしょうけど、
そんなにも長い期間、西の都城であり続けたんですね…。







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かわじーここで、自分が何も考えず口にした一言を思いだしました。
「それにしても、随分ひいて護ったんですねえ」

そうかもしかして、と思いました。






もしかしたら、大宰府はある程度長期的な視点をもって、造営されたのかな。
捨てゴマ同然の一時的な防御拠点ではなく、

この先末永く大陸と向き合うつもりで。
九州の内政を固め、唐・新羅と腰を据えて事を構えるつもりで。






多少なりともそういう意図がなければ、
こんな内陸部にひかないでしょうし、七堂伽藍を備えた寺や教育機関もいらない。
1300年後も跡が残るような水城、つくんないよ…。






きっと相当緊縛してたやろうに、すごいなと思った。

例えば私が勤める会社なんて、小さなことでも止血策ばかりして、根本的な対策なんて全く立てないのに。
今の政治家とか、目先のことしか言わないのに。






意図どおりなのかはわかんないけど、あの逼迫した状況で作った都城が、500年も西の拠点であり続けた。

大宰府をかなり見直した。素晴らしい。







やっぱり現地でないとわからないことってあるなあ。







かわじーのマニアックな大宰府旅、次は菅公を詣でます♪